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10月29日説教のポイント(郡上八幡伝道所)



「  小羊の血は衣を白くする  」

 十月の最後の主日を迎えることになりました。この主日は、プロテスタント教会にとっては宗教改革記念日にあたります。また、教会の暦によりますと諸聖人の日曜日にあたります。ローマ・カトリック教会以来、信仰の先達を忍びつつ、今、生きているわたしたちの信仰を改める時をお祝いします。

 今日は、ヨハネの黙示録よりみ言葉を与えられました。多くの群衆が礼拝する様子が描かれていました。この様子が、わたしたちにとっては、来るべき日の復活と神の国で永遠の命をいただく希望を新たにする信仰へと導きます。信仰の先達を忍びながら、わたしたちの今の信仰を、希望に満たす今日の礼拝をささげるために、ふさわしいみ言葉が与えられました。「大きな苦難を通り抜けた者たちである」との言葉がありましたが、世の信仰者は、ひとしく苦難を通り抜け、永遠に神を礼拝する日が約束されています。

 それにしても、このヨハネの黙示録は、とっても不思議な、謎めいた書物なのです。このやがてくる日について、ヨハネがイエス・キリストにより、幻をみたというのです。良い機会ですから、この書物の書き出しを確認しておきたいと思います。ヨハネの黙示録第一章1~3節を御覧ください。452pにあたります。「イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストにお与えになり、そして、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分の見たすべてのことを証しした。この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちは幸いである。時が迫っているからである」

 じつに力強い確信に満ちた言葉で、ヨハネ自身が見たことが、イエス・キリストからのものであると証ししています。ここにあるとおり、これから起こることとして、書いてあることをあれこれ議論するよりも、信仰によって素直に受け入れることが勧められているということもできるでしょう。

 さきほどの黙示録の書き出しによれば、ヨハネ自身が、幻の中で見たものとされます。これがまったく地上の礼拝の様子からかけ離れたものかと言いますと、そうでもないのです。実際のところ、黙示録に記される礼拝の様子は、すでに初代の教会でささげられていた礼拝の様子も伝えています。912節には、このように描かれていました。少し長いですが、あらためて読んでみます。「この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、大声でこう叫んだ。「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊のものである。」また、天使たちは皆、玉座、長老たち、そして四つの生き物を囲んで立っていたが、玉座の前にひれ伏し、神を礼拝して、こう言った。「アーメン、賛美、栄光、知恵、感謝、誉れ、力、威力が、世世限りなくわたしたちの神にありますように、アーメン」。

 彼らは神の玉座と小羊であるイエス・キリストを中心にして礼拝をささげています。ここが礼拝のかなめになります。どのような時代にあろうと、場所にあろうと、ささげられる中心に神がおられ、招かれたものたちは、神を賛美するものとなるということです。

 さて、賛美のあとに続くのが、神の御業の説き明かしです。13節と14節によると、ヨハネと長老は問答するようにして、白い衣をきた大群衆が誰なのかを解き明かします。「すると、長老の一人がわたしに問いかけた。『この白い衣を着た者たちは、だれか。また、どこから来たのか。』そこで、わたしが『わたしの主よ、それはあなたの方がご存知です』と答えると、長老はまたわたしに言った。『彼らは大きな苦難を通って来たもので、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである』。

 今日、とくに注目しておきたいのは、この白い衣を着た大群衆が、大きな苦難を通って、その衣を「小羊の血で洗って、白くした」というところです。ここに、やがて来る日の神の御国での礼拝と、今のわたしたちが、このようにしてささげている礼拝との、つよいつながりを見出したいのです。

 さきほど、この当時の教会が置かれた状況とも、かかわりがあるといいました。ヨハネの黙示録のほかの箇所には、当時、ローマ帝国から受けた、厳しい迫害の様子を記したと思われる記述がたくさん残されています。ローマ皇帝は、皇帝の権威以上に、イエス・キリストという救い主をあがめる群れを忌み嫌い、恐れました。

 わたしたちは将来、天上の国に行ったとき、たぶん、ローマの迫害にあった人たちとともに永遠の御国で礼拝をささげることになるでしょう。ここ日本における、キリスト教への迫害といえば、キリシタンのことが思い出されます。江戸幕府のときのキリシタンへの迫害のように、激しい責め苦を味わいながらも信仰を捨てなかった人たちと、ともに復活し、神様を礼拝することになるでしょう。今日のみ言葉にある白い衣を着た人たちのなかに、ローマ時代のキリスト者もいれば、江戸時代のキリシタンもいる。世界の、多くの苦難を通り抜けてきた信徒たちが集められというのです。

さて、いまのわたしたち、現代の日本に生きるキリスト者を顧みてみます。幸いにして、わたしたちは、彼らほどには、命の危険を冒してまで礼拝を守ることはないのです。信教の自由が保障されています。おそらくこれからも迫害にあって、命を落とすということはないでしょう。このようなわたしたちは、多くの苦難を通り抜けてきた彼らにたいして、同じ、白い衣をきて、礼拝に与ることが許されるのでしょうか。

今日のみ言葉によれば、はばかりなく、わたしたちも白い衣をきて、かの日には、永遠の礼拝に加わることができると、はっきりと確信をもって、言い切ることができるでしょう。なぜならば、わたしたちが衣を白くするのではないからです。わたしたちの衣を白くしてくださるのは、小羊の血、すなわち十字架で流された御子イエス・キリストの血だからです。

 たしかに、大きな苦難と言われるように、それぞれの時代における迫害と、それによる殉教は、尊いことでした。決して、軽んじることのできないことです。しかしながら、それが信仰者の尊さの証しとして理解されることではないのです。どのような素晴らしい行いであっても、胸を打つような殉教であっても、わたしたち人間の功績にはならないのです。そうではなく、すべてのことが、主なる神様への栄光を帰する、証しとして用いられるからです。

殉教は、神様の特別の召しだしがなければ起こされないことと理解されます。新約聖書におけるギリシャ語によると、殉教者は、マルトゥリオンと言います。これはマルトゥリオー・「証しをする」人という意味である。キリストの証しをする人が殉教者であって、自分を証しする人は、殉教者とは言いません。時と場所も、イエス・キリストを証しするために定められるからです。

 そのようにあらためて、殉教者の、証し人としての本来の意味を確かめたとき、いまの日本にいるわたしたちも立派な、証し人ではないでしょうか。たしかに肉体に害がおよぶような迫害を受けていないでしょう。しかし、考え方によれば、もしかしたら、ローマ帝国や江戸幕府の頃よりも、苛烈な迫害を受けているといえます。いま、どれほどわたしたち人間を、物質的に豊かにし、神ならぬものを拝ませようとする業の強いことか。また、虚しい生き方にいざなおうとする悪魔的な価値観が横行していることか。ゆるやかですが、確実に永遠の命から魂を遠ざけ、絶望による死に至らしめます。

そのように考えながら、今日のみ言葉にある、「苦難」を改めてよく見てみます。じつは、14節の「苦難」とやくされるギリシャ語は、肉体的なものに限りません。「狭いところで押しつぶされそうになる」苦しみをさし、それは肉体だけでなく、心の問題も含みます。主なる神様への一途な思いを妨げようとする、もろもろの事柄のなかで、わたしたちはいま、生きています。ときには、信仰と、現実的な問題の板挟みにあい、狭いところで押しつぶされそうな思いにすらなる。しかしそれであっても、わたしたちはすでに、小羊の血で贖われ、主の御守りの内側にある。そうして、生涯をささげつつ、大きな苦難を通り抜けようとしています。だから、私たちは、今、このときにあって、どの時代の殉教者ともひとしく、大きな苦難を通り抜けようとしている者なのです。

 わたしたちは、喜ばしいことに、こうして小羊の血によって衣を白くさせていただきます。永遠の神の礼拝が約束してくださいました。なぜ真っ白なのか。それは神の尊さと栄光に輝く姿とも受け取れます。それだけでなく、白い衣の群衆に連なる人は、地上の功績には関係なく、みな真っ白なのです。小羊の血によって、罪の汚れを取り除かれ、白くされたかどうかだけが問われるのです。誰かが特別に、きらびやかな衣装を着るわけでも、勲章や飾りがつくわけでもない。全員が、ただ白い衣を着るのです。地上のわたしたちの功績ではなく、御子イエス・キリストの贖いによって救いをいただけることを信じるか否か。問われることは、それだけなのです。

 わたしたちがやがて行き着くところの礼拝は、このように約束されています。「それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、昼も夜もその神殿で神に仕える。玉座に座っておられる方が、この者たちの上に幕屋を張る。彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである」

 喜ばしいことに、わたしたちはすでに地上の歩みにおいて命の水の泉なるみ言葉の恵みにやしなわれ慰めをいただいています。今日は、信仰の先達を思い起こしながら、礼拝をささげる日と紹介しました。かつてこの地で礼拝を堅くまもり、大きな苦難を通り抜けて、天にお帰りになった信仰の先輩方がおられます。やがては、親しく顔を思い浮かべることのできるすべての人が、皆、真っ白い衣を着て、神の国で再会します。棕櫚の葉をかざして、「アーメン、アーメン」と神様をほめたたえ続けるものとされるのです。

 十字架のかたえにたち、小羊の血によって、わたしたちの姿は、真っ白い衣を着るものとされました。今、このようにして、神を中心とした礼拝に、イエス・キリストによって招かれて、聖霊の働きによってささげられていることが、なによりの証しです。いましばらく、地上の国で、やがて来たる神の国の礼拝をさきに味わう恵みに、わたしたちはあずかれるようです。朽ちることのない希望を与えられた喜びとともに、大きな苦難もアーメンと唱えつつ、通り抜けてまいりましょう。真っ白い衣をみんなで一緒に着る日が待っています。父、子、聖霊の御名によって、アーメン。祈りをいたします。 賛美、栄光、知恵、感謝、誉れ、力、威力が、世世限りなくわたしたちの神にありますように。すでに天の御国に、わたしたちが住まう場所を備え、しかも永遠に神に仕えるために礼拝に招いてくださるとは、なんと幸いなことでしょうか。なにも誇れることなどないにも関わらず、あなたは愛する御子の尊い血潮によって、すでにわたしたちの罪を赦し、清くしてくださいました。なお通り抜けるべき苦難があろうとも、永遠の御国の礼拝があり、さきに召された親しい人たちとの再会が約束されているがゆえに、わたしたちは悲しみません。あなたが涙をぬぐってくださいます。神の小羊、イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。

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