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9月27日祈祷会 士師記第10章16節~11章11節

「 痛むがゆえに御心を示される 」

 ギデオンのことを記した第八章を終えました。第九章をスキップしたのは、ギデオンの子孫についての出来事だからです。ギデオンの晩年が人間の罪の弱さを浮き彫りにしたところを先週見ました。そのとおり、第九章では、息子アビメレクの非道と、それに対する報復によって無残な最期をとげるところが語られます。ギデオンの罪の残りが子孫を不幸に陥れたということでおおむね了解できるところ。先に進むことにしました。

大士師エフタに入るまえに、トラとヤイルという二人の小士師について、少しだけ触れられています。トラが治めたのが22年、ヤイルが治めたのが23年。たして45年の長きにわたって、主はイスラエルに士師を送って守り続けておられます。なんども裏切るイスラエルの民だが、主はそれでも士師を選ぶことをおやめになりません。

①なぜ何度も背くイスラエルに、主は救いの御業を起こされるのか

16節「彼らが異国の神々を自分たちの中から一掃し、主に仕えるようになったので、主はイスラエルの苦しみが耐えられなくなった。」

このなかでも「主はイスラエルの苦しみが耐えられなくなった」という言葉を見ながら、神様とはどういうお方か考えてみます。ここは原点の訳もご一緒に紹介します。「וַתִּקְצַר נַפְשׁוֹ」もともとは「落ち込んだ」という動詞と、「彼の魂」という言葉。直訳すれば、「神様の魂は落ち込んだ」ということになります。それがなにを見てそうなったかというと、同じ節の前の部分「彼らが異国の神々を自分の中から一掃し、主に仕えるようになったので、「主はイスラエルの苦しみに、魂が落ち込んだ」のでした。

聖書の大切な目的には、真の神であり真の人であるイエス・キリストのお姿を通して神様の姿を示すということがあります。神様は、人間をご自分に似せて作ったので、人間は神様と共通して持っているものがあります。それが、心である。神様も今を生きておられるお方。御心と言われるものです。わたしたちは、聖書を通して、全能者である神を知り、人の罪を知り、福音による救いの意味を知ろうとします。わたしたちが心をもって神様を知ろうとするように、神様も御心をもって今も救いの御業を行おうとしておられます。ですから、わたしたちの心の中のこともよくご存じであるということになります。では、神様が心をお持ちの今も生きておられる方だとして、その心が苦しみ、痛みを覚えることはあるのでしょうか。

かつて「神の痛みの神学」を提唱した北森嘉藏という神学者がおられました。かいつまんで言えば、神は痛みを感じるお方か否かを、聖書によって立証しようとする試みです。北森先生によれば、「神は痛みを知り給うゆえに人を憐れみ、救い主を送ってくださった。」ということです。しかしこれは自明のことではありませn。「全能の主である方が痛みをしるのだろうか」と疑問に考える神学者が多いからこそ、この学説は日本だけでなく世界でも賛否両面から評価されました。

北森先生の深い検証が是か非かは、留保するにして、聖書は確かに神様が心をもって働かれるお方であることを豊富にしめしています。この16節も、イスラエルは心から悔いて、真実に主に仕えるものとして立ち返りました。人間は真心から救いを求めるとき、心はなんらかの痛みを覚えています。そして、悔い改めたいと切実に願う気持ちをしっておられます。だからこそ、真実の悔い改めを神様はお喜びなさいます。誠実に神の御前に悔い改めを行うとき、その心のなかは、神様にすっかり知られています。その悔い改めの痛みのゆえに、神様は悔い改めがまことのものかどうかをお知りになる。心から悔い改めた人に救いがもたらされるのは、神が痛みを知っており、そこにまことの赦しと慰めを与えるからです。

旧約にしるされる父なる神がそうであるように、イエス様はいっそう憐れみの心をもたれました。この16節にある「心がおちこむ」に相当するギリシャ語は、「スプランクニゾマイ:はらわたを痛める」です。イエス様が憐れみを覚えるとき、たとえばマタイによる福音書第9章「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」や、ルカによる福音書第七章ナインのやもめの息子をよみがえらせるところでも「主は、この母親を見て憐れに思い」というところ、このスプランクニゾマイという言葉が用います。イエス様ははらわたが痛むほどに、罪のなかで苦しむ人の嘆きを聞きました。それがゆえに、十字架での苦しみを耐え忍んで赦しを与えてくださると言えます。

イエス様によって示されたように、神様というお方は、心を痛めるお方であるということは、この16節から言えると思います。イスラエルは、神の背いたことを苦しみのなかで悔い改め、助けを求めます。神様としては、愛する民が裏切ってほかの神々を拝んだ背きを、痛みをもって感じています。「魂が落ち込む」ほどに、立ち返るものの誠実な救いを求める祈りに心を動かされました。神様は生きておられるので、こうして痛みを覚えながらも救いの御業を起こされます。こうしてエフタが選ばれることになったのです。

②エフタの選びにも、人間の基準では考えられない御心が働いている 

エフタの選びに入っていきます。読んでみてわかるように、彼の出自にもエピソードがあります。士師たちはじつは、みんな出自になにかがあります。エフド、右手にハンディキャップを抱えていた。デボラ、男性社会のなかで女性だった。ギデオン、弱小の一族の最年少で酒船のなかで隠れて麦を打っていた。エフタは遊女の息子です。1節と3節に短くエフタの選びまでのあらすじが描かれます。11:1 ギレアドの人エフタは、勇者であった。彼は遊女の子で、父親はギレアドである。גִּבּוֹרחָ֫יִל「勇者」=「軍隊の長」、実力があったことを示しています。②「父ギレアド」、これは名前ということではなく「出身の男」③「遊女」、母はギレアド出身の男に春を売り、その間に生まれたのがエフタ。④体一貫、たたき上げで軍隊の長になった男。並々ならぬ苦労があったことを想像してもいいと思います。⑤正妻の子供らはエフタを差別します。この部分、ギデオンの息子たちを対照的です。妾腹の息子であったアビメレクは、本家の兄弟たちを皆殺しにしました。11:3 エフタは兄弟たちから逃れて、トブの地に、身を落ち着けた。そのエフタのもとにはならず者が集まり、彼と行動を共にするようになった。「ならず者」:「אֲנָשִׁ֣ים רֵיקִ֔ים」、訳すのが難しい「むなしい男たち」、察するにエフタのように生まれになんらなかの問題があり、村八分された男たちのことではないかと推測します。エフタは身寄りのない男たちとともに暮らすことを選びました。彼は自らの境遇が恵まれていなかったことを知り、同じような境遇の男たちの痛みを知る人でした。1-3節から受け取れるエフタの人物像は、エフタは実力があったにも関わらず出て行ったことや、のちほどに示される信仰的な発言も含めて考えると、神様への信仰のもとに無益な争いをこのまず、身を慎む忍耐を知る人柄であったことがうかがえます。

③長老たちはエフタを説得する。長老の大切な職務について

アンモン人が攻め込んでくることが明らかになりました。ギレアドの住民たちは危機にさらされます。長老たち、人々をまとめる役目を負う彼らは、エフタしかいないということで、説得に出かけることになりました。しかしエフタは簡単には「はいそうですか、やらせていただきます」というわけにもいかない。長老たちとエフタのやり取りに、群れにかかわることを決めるときの大切なことが示されています。7-8節のエフタと長老のやりとりをみてみます。

11:7 エフタはギレアドの長老たちに言った。「あなたたちはわたしをのけ者にし、父の家から追い出したではありませんか。困ったことになったからと言って、今ごろなぜわたしのところに来るのですか。」11:8 ギレアドの長老たちは、エフタに言った。「だからこそ今、あなたのところに戻って来たのです。わたしたちと共に来て、アンモン人と戦ってくださるなら、あなたにわたしたちギレアド全住民の、頭になっていただきます。」追放さえたエフタは口惜しい思いを語ります。「何を今頃になって」と。そこで長老たちは食い下がって、群れのために説得します。ところで「だからこそ今、」とある。どうつながって「だからこそ今」なのか、長老たちは強引に自分たちを正当化しているように聞こます。ヘブライ語原典、またほかの英語の訳をいくつか参照しました。じつは、ヘブライ語の前置詞の順序の扱いでかわります。問題は「なにが理由か」ということ。たぶん「だからこそ今」ではなく、「今だから」。すなわち問題とされているのは「今」という危機的状況。エフタは「なぜ今頃」と問います。長老は「今、たいへんだからだよ!」と言っています。

長老たちは「今」を問題にしています。彼らはエフタがのけ者にされて悔しいことはわかっているのです。しかしかつての怨恨を超えて、いまイスラエル全体の危機であるということをエフタに説得しています。これは大事なことです。小さいことにこだわらず、大きなことにあたってほしいと。小さなことにこだわって宣教の足を引っ張るという体験を聞いたことがあります。小事にこだわっては神様の大事に仕えることができません。長老はもとより、キリストの枝とされたものは、なにか問題にぶつかったとき、小事をいったん忘れて、より神様の御心にちかいところに心をあげて、ものを考えることも大事です。

 こうしてエフタと長老たちの話はつきました。この一部始終をだれが見ておられたか、これも合議によって群れが前に進むために大切なところです。10-11節です。11:10 ギレアドの長老たちは、エフタに言った。「主がわたしたちの一問一答の証人です。わたしたちは必ずあなたのお言葉どおりにいたします」と答えた。11:11 エフタはギレアドの長老たちと同行した。民は彼を自分たちの頭とし、指揮官として立てた。エフタは、ミツパで主の御前に出て自分が言った言葉をことごとく繰り返した。

群れのなにか大事な出来事を考えるときには、忘れてはならないこと。長老たちのなかで定められることは主がご存じです。今日は長老という言葉が出てきたので、少し現在の長老についての大切な部分も一緒に考えておきたいと思います。この長老という言葉「ジャーケーン」がギリシャ語では「プロスビュテロス」となり、長老派教会「プレスビテリアン」のもとになりました。「長老たち」と複数形になっています。長老主義の意義は、合議制であること。たとえ教職といえども、小会にあってはワンマンであってはなりません。わたしは小会において、按手を受けた教職と長老は働きに違いがあるけれども、同じ宣教長老と治会長老として小会の構成員としての責任の重みは同じだと学びました。今日のところでも、単数ではなく「長老たち」と複数になっています。霊的に成熟した人を神の御心によって、群れのなかから複数名選び、群れのために働いています。

「主がわたしたちの一問一答の証人である」事実は重い。一度決められたことは、責任をもって果たされます。それだけでなく神の御前に合議されたことは、うまくいかなかったときにも群れの養いになります。「神様の御前で、合議によって決めたこと」といえども、必ずうまくいくとは限りません。上手くいかなかった場合でも神の御前に祈って合議したという事実が、次に向かう時に大切。もしワンマンであれば、その人の責任が重くなります。うまくいかなかったとしても、祈ってみんなで決めた事実が大切。「なにか主の導きがあってこういうことになったのではないか」と、群れ全体が考えることが大切になっていくでしょう。

(連合長老会の書物から)「長老は、一般の代議制度における選んだ者たちの意見によるのではなく、ただ聖書によって示された神の意志に従ってその職分を果たさなければならない。また、長老は、牧師と共に構成する長老会の立場と方針に逸脱し、また反して行動してはならない。長老は、自己の主張に反してなされた長老会の決定であっても、これを重んずることによって自己の公正と謙虚を示さねばならない。」

今日は、神様が心の痛みを感じられるお方であることと、エフタの選びが、神様が長老を通して御心を示されたという二つの点を確かめることができました。これまでもそうであったように、救いの御業が現れるとき、とにかく今も生きておられる神様が、イエス・キリストのお姿を通して働きかけていてくださることを知ります。痛みを知って、人を選び、適切な仕方を示してくださる。教会もそうして、神様がいつも先立ってことを起こされるととらえる視点を養っていきたいと思わされた次第です。

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