« 10月29日説教のポイント(郡上八幡伝道所) | トップページ | 11月5日説教のポイント »

11月1日祈祷会 士師記第16章

「 サムソンを笑えない 」

 三回にわたって士師サムソンの姿をみてきました。これまでの士師がそれぞれ、異なる姿を見せていました。神様はさまざまな境遇にある士師たちを、日々の生活から選び、召しだし、養い、育て、イスラエルの救いのために用いられています。この神様のなさり方は、今も変わりません。お一人お一人の境遇は、二つと同じものはなくても、そこから選んで召しだし、役目をあたえ、イエス・キリストのみ体である教会に生きる者としてくださいました。そして、生涯を通して、救いの御業にともに関わる生き方を与えてくださいます。

 サムソンの姿はどうでしょうか。壮絶な最期ですし、ここに至るまでも、ちょっと考えられない乱暴な行動がたくさんありました。この姿から、共感を得ることは難しいかもしれません。士師になったというのに、またしても女性問題で失敗するのです。「愚かなサムソンだなあ」と、肩をそびやかして、わたしたちもペリシテ人と一緒になって、目玉をつぶされ、粉を引く彼を笑うことにしましょうか。

しかし、彼は最後の力を振り絞って、神様に祈り、イスラエルの救いのために命をささげました。この姿には、わたしたちは心惹かれるものがあるのではないでしょうか。命を投げ出して、救いに用いられる。この一点に集中すれば、どの信仰者もやがてはその道を歩んでいくことになります。

 サムソンの最後は、女性問題から始まります。まずデリラという女性の前に、遊女が登場します。これは、士師としての20年のつとめにあっても、女性に対する欲は抑えることができなかったことを示していると言えるでしょう。デリラという決定的な女性に出会うまでは、うまくその欲をいなしていたようですが、ついに足元をすくわれることになりました。

 カネでペリシテに買収されたデリラは、サムソンに言い寄ります。言うまでもなく、ここは、カネの欲に任せて、罠に陥れようとする罪が示されています。三回までは、適当にごまかしていなすことができたサムソンでした。しかし、あきらめることなく、言い寄るデリラの姿には、罪がじわじわと迫って来る恐ろしさを含んでいるように思えます。罪は、常に手を変え、品を変え、あきらめることなくわたしたちを襲ってきます。まるでことが成就するのを息をひそめて待っているペリシテ人のように、戸口で待ち伏せしているようではないでしょうか。創世記第四章七節では、神様は怒って顔を伏せるカインに「罪は戸口で待ち伏せし、お前を求める」と警告されていました。罪はまことに恐ろしい存在です。

サムソンは、甘い言葉で言い寄るデリラに、とうとう打ち明けてしまいました。ここは、士師としての自覚を、女性に気を許して忘れてしまったと読めるかもしれないところです。実際、ここを旧約聖書の解釈にのみ頼り、教訓的に読んだとすれば、士師として役目を与えられながら、その自覚を忘れたサムソンから、神様は離れたという理解に至ります。

そうなれば、聖書を読むわたしたちは、ここから何を学ぶでしょうか。「愚かなサムソンだ。それでは、わたしたちは欲に負けないように、自分たちを厳しく戒めで律しようではないか」と思うでしょうか。わたしたちはこの欲に負けてしまい、士師としての自覚を忘れたサムソンの愚かさを、冷ややかに見くだしながら、「わたしはそうはならないよ」と思いつつ、反面教師のようにして読んだほうが良いのでしょうか。

はれて悪の策略を成功させたペリシテたちは、力を失ってとりこになったサムソンを縛り上げ、目玉をくりぬいて、労働させ、見世物にして笑いました。「おうおう、あれが怪力のサムソンよ。やはりペリシテのダゴンの神々の力にはだれもかなわないのだ」。ついに怪力のサムソンも万事休すです。このままペリシテの慰み者となってしまい、イスラエルはペリシテの支配に屈服することになるかと思いきや、こんどは足元をすくわれたのは、彼の愚かさを大いにわらったペリシテの人々となりました。もじどおり、最後の怪力を振り絞るサムソンが柱を倒し、上からのぞいてサムソンを笑っていたペリシテの人々は、足元をすくわれ、道連れにされて死んでいきました。じつは彼らもサムソンをけっして笑えない人々だったのです。

たしかに、サムソンの最後は、彼の身から出た錆でした。サムソンの登場のころから、とにかく女性への弱さがもめごとの原因を作ってきました。罪の兆しはあったのです。それでも、神様はサムソンを士師として立てました。ここが重要だと思うのです。士師とされても、なお女性に対する弱さをいつも抱えていたことは、人間の罪に対する弱さを暗示するようです。

わたしたちは、救いのご計画のなかに入れられ、神に選ばれたものとなりました。ところが、そうではあっても、なお人間としての欲望への弱さは、抱えながら生きていかねばなりません。旧約聖書は、人の弱さを赤裸々に語ります。サムソンのように欲望に弱い人間を、ペリシテ人たちのように慰み者にして、他人事として笑うよりも、この姿のどこか共通点がないだろうかと、わたしたちに自覚を促すように読む方が信仰的ではないでしょうか。わたしたちにとっても、神様に選ばれ、守られているとはいえ、「罪はいつも戸口で待ち伏せて」います。わたしたち自身には、罪に対抗する力は、まったくありません。

さて、サムソンの最後の祈りを働きによって、神がイスラエルをペリシテから救い出す御業は完成しました。彼は、命と引き換えにしてペリシテの領主たちを道ずれにし、イスラエルを救ったのでした。彼の祈りの言葉を聞く限りでは、最後のとき、士師の働きとしての自覚があったようには書かれていないようです。28節では「二つの目のための復讐」と言っているからです。だから、彼が士師としての最後を、イスラエルの救いのために投げ出したと言えるかはわからない。しかし、確実に言えることは、「ペリシテからの救いの手がかりをさがしていた神様の救いの御業はここで成就した」ということだと思います。なんと、罪に弱く、士師の自覚があったかどうかもわからないサムソンの命すら、救いのために用いられたのでした。

わたしは、このようなサムソンの姿に、新約聖書でイエス様がいわれたように、一粒の麦が地に落ちてしななければ、一粒のままだが、死ねば多くの実を結ぶ」とのみ言葉を思い起こします。お開けくださっても、お聞きになっても結構です。ヨハネによる福音書第1223節からのところ、新約192ページです。「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」

罪に弱いわたしたちではあるけれども、このみ言葉をきいて命をささげる道を歩んだときに、永遠の命に至ると言ってくださいます。罪に弱いわたしたちが、本当に多くの実を結ぶことになったかどうかがわかるのは、イエス様に最後までお仕えして、最後に息を引き取るときなのかもしれません。

今日はサムソンの最後の回となりました。サムソンの人生を振り返って、どのような印象が残ったでしょうか。彼の最後が印象的に示すように、士師でありながらまことに人間的、感情的なサムソンでした。罪との闘いということでいえば、かれの人生は白星と黒星では、黒星が圧倒的に多かったと言えるでしょう。しかし、人生、罪に負ける黒星続きであっても、最後に神様に用いていただき、息を引き取るとき、まるで黒星がひっくり返るようにして、白星になったように思えます。サムソンの最後は、信仰によって神様に認められるところのものとなりました。なお、今はその箇所を開けませんが、ヘブライ人の手紙第1132節によれば、信仰によって神に認められたものとして、サムソンを数えます。

わたしは、サムソンを笑い、反面教師として理解するよりも、罪の弱い姿でありながら、最後に命をかけて救いのために用いられた姿に、信仰者の最後の姿を見たいと思いました。わたしも、サムソンを笑えません。わたしも、罪に対して、両目をえぐられたように盲目で、ただ罪の奴隷として働くだけだったころがありましたから。ただただ、イエス様に救われて、用いられている今の姿に深く感謝するのみです。サムソンの姿に、信仰者の現実を見出し、罪に弱い欠けの多い身であっても、こうして用いてくださる恵みに感謝する、そのような読み方を選びたいと思います。

三回にわけて、士師サムソンを見てきました。これにて、十二人の大小の士師をすべて読みました。なお後日談のようにして、士師記は続きますが、先を急ぎたいと思います。来週からルツ記に入っていきます。今日は、これまでといたします。

« 10月29日説教のポイント(郡上八幡伝道所) | トップページ | 11月5日説教のポイント »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 11月1日祈祷会 士師記第16章:

« 10月29日説教のポイント(郡上八幡伝道所) | トップページ | 11月5日説教のポイント »

フォト

カテゴリー

写真館

  • 201312hp_2
    多田牧師「今月の言葉」に掲載したアルバムです。(アルバム画面左上のブログ・アドレスをクリックしてブログに戻れます。)
無料ブログはココログ