« 11月19日説教のポイント | トップページ | 11月19日説教のポイント(郡上八幡伝道所) »

11月12日説教のポイント(郡上八幡伝道所)

「  流れは尽きせず  」

日に日に寒さが募る頃になりましたが、皆さまの健康はいかがでしょうか。お一人おひとりがご健康に過ごされるようにと、いつも祈りに覚えております。わたしは幸いにして、4月の着任から今日まで、ほとんど体調を崩すこともなく過ごしてまいりました。皆さまが、わたしにとっての初めての土地ということで気遣ってくださいます。きっと、お祈りのうちに覚えてくださっているからだと嬉しく思い、神様に感謝しています。

このように健康でいられるのは、神様のおかげ、皆さまの祈りのおかげだと思っています。それに加えて、水のきれいなところに遣わされたということも、健康が保たれている大きな理由だと、本気で思っています。近くを流れる長良川は、ここ郡上までさかのぼってきます。吉田川もきれいです。水が美しく、美味しく、川の流れをみるたびに心を癒されます。

四季の豊かな日本、自然の豊かな日本にあっても、川の流れに対する思いはひとしおだと思います。この思いは、きっと、聖書にしるされているイスラエルの人たちにも通じるものがあるのではないかと思います。聖書では多くの川が登場し、また川の流れをもちいて様々な信仰的な事柄をわかりやすく言い表されることです。今日のみ言葉は、預言者アモスが語ったみ言葉でした。最後に読まれた24節にも、「洪水」「大河」という言葉が用いられていました。「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように尽きることなく流れさせよ」。これは一つのたとえです。アモスは乾いたものに潤いを与える豊かな川の流れを、神様の御業を言い表すために用いています。

さてこのように神様の御業を語るアモスです。神様の正義が洪水のように、恵みの業が大河のように流れれば、どれほどよいかとわたしたちは祈り願います。ところが、この24節にいきつくまでの預言の言葉は、むしろ、神様への立ち返りを求める裁きの言葉が語られます。神様の御業が御心のうちになるようにと祈り願うわたしたちにとり、聞き流すことのできない預言者の言葉が、ここに語られているようです。

まず18節から20節までを見てみます。「災いだ、主の日を待ち望む者は。主の日はお前たちにとって何か。それは闇であって、光ではない。人が獅子の前から逃れても熊に会い、家にたどりついても、壁に手で寄りかかるとその手を蛇にかまれるようなものだ。主の日は闇であって、光ではない。暗闇であって、輝きではない。」

今日は主の日です。わたしたちはこうして神様の声に招かれる日を楽しみにしながら一週を歩んできました。ところが、「主の日を待ち望む者」が災いだと語るのです。心を騒がさずにはおれません。しかし聖書に記される以上、見過ごすこともできません。ここは心を落ち着けて、御心の真意を聞いておきたいところです。

まず、少しアモスのことについて語ります。アモスは、他の預言者とくらべて、特別なところがあります。彼は、エルサレム郊外のテコアと呼ばれるところに生きた人です。彼はそこで羊を飼い、商う仕事をしていました。ほかの預言者が、生涯を預言者として暮らしたのに比べ、彼はいわば普通の人として仕事をしていたところに、神様からの召しだしを受けました。そして生涯を通してではなく、短い期間に集中的にみ言葉を語った人です。ですから、彼の眼差しには、当時の社会の営みにたいする現実的な見極めがそなわっていました。

アモスが生きていたころは、比較的、北イスラエルも南ユダ王国も、繁栄を誇っていたと言われます。まだアッシリア帝国やバビロニア帝国に襲われる前の王国でした。彼のまなざしのまえには、平和な世の中で、豊かな暮らしを楽しむ民がおります。

さて、こういったアモスが置かれていた状況を覚えたうえで、18節の「主の日を待ち望む者」とはいったい誰なのか、考えてみます。この「待ち望む」という言葉は、このように訳されていますが、同じ言葉がほかの箇所でやくされたとき、それは「むさぼる」「欲する」「焦がれる」「執着する」といった意味にも訳されます。文脈によっては、あまり良い意味には用いられない言葉です。ここでは、「待ち望む」と訳されることの是非は、ひとまず置くとして、アモスの目の前にいた人々が、いったいなにをしていたのかを、考えます。

さきほど、このころは、比較的豊かな時代であったと語りました。この豊かな時代にあって、神様に対する礼拝、すなわち「主の日」はどのように祝われていたのか。それを語るのが、21節から23節のところです。21節だけもう一度、読んでおきます。「わたしはお前たちの祭りを憎み、退ける。祭りの献げ物の香りも喜ばない。」

 神様は、豊かな時代にあって人々がささげる祭り、すなわち礼拝を喜ばないと語ります。この、アモスが生きたころ、すなわち社会が豊かな時代に捧げられた礼拝の様子が、18節の「待ち望む」と訳される言葉に、文脈のなかで関わってきます。

 アモスが眼差しを注いだ当時の社会は、たしかに物質的に豊かなものがありました。商いが発達し、持てる者は、ますます持つようになる世の中でした。王国は富み、その感謝が礼拝でも捧げられたことです。こういった様子は、アモス書のほかの箇所でも語られます。そういったなかで、見逃すことができないのは、豊かな社会のなかで、持つことが出来ない人、貧しい人、苦しい農民が虐げられていたということです。自らが羊を飼い、それを商う仕事についていたアモスの眼差しは、世の中の不正を的確にとらえます。一か所だけ、ほかの箇所から当時の世の中を示した言葉をひいておきます。おなじくアモス書第八章の4節~7節、1439pにあたるところを読んでおきます。「このことを聞け。貧しい者を踏みつけ、苦しむ農民を押さえつける者たちよ。お前たちは言う。『新月祭はいつ終わるのか、穀物を売りたいものだ。安息日はいつ終わるのか、麦を売りつくしたいものだ。エファ升は小さくし、分銅は重くし、偽りの天秤を使ってごまかそう。弱い者を金で、貧しい者を靴一足の値で買い取ろう。また、くず麦を売ろう。』主はヤコブの誇りにかけて誓われる。「わたしは彼らが行ったすべてのことをいつまでも忘れない」

 じつにここに語られる、不正を行う豊かな人たちが、アモスが語るところの「主の日を待ち望む者たち」でした。すなわち、世の中の豊かさを、わがものとし、助けを求める声に耳を傾けない人にとっての、主の日は、むさぼられるようなものであり、それは御心にそうものではないと、主は語られるのです。

 ここまでのところで、ひとまず、アモスが語り掛ける人々と、その預言の言葉の厳しさの意味があきらかになりました。豊かな暮らしを楽しむばかりの「主の日を待ち望む者」にとって、主の日は決して光ではなく、闇であることは、なるほどそのとおりだと思うものです。

 こうしてアモスの預言に耳を傾けますと、かつて起こったことは、決して今とは無関係でないことを改めて思わせられます。このようにして、今、わたしたちは幸いにして、守られて礼拝をささげることができております。しかしながら、わたしたちの国の同胞が、また世界のなかにも、この夜をどのようにして過ごそうか、この日の食事をどのようにして守ろうか、思い悩んでいる人がどれほどおられるかと思います。物質的な貧しさに限らず、世の豊かさのゆえに、かえって多くの弱さを抱えた人々がいるのです。

さきほど読んだところでは、主はこのようにも語られました。「主はヤコブの誇りにかけて誓われる。『わたしは、彼らが行ったすべてのことをいつまでも忘れない』」。いまも地上で行われている出来事は、主がお忘れにならないことです。

 わたしたちは、こうして世に神様の正義に照らして、御心に沿わないことが行われていると知ったとき、苦しむ人々がいること知ったとき、心は悲しみに包まれ、主に「正義」と「恵みの業」が行われるようにと願わずにはおれません。かくして預言者は24節で、世の渇きを覆いつくすように、貧しき人、苦しんでいる人を潤す、主の御業がなることを祈り求めるのです。

 ところで、アモスの頃の豊かさのなかにあった「主の日を待ち望む者」、すなわち裁きの言葉をかけられていた人々の魂は、はたしてどのようであったのでしょうか。というのも、アモスを通して主が語り掛けられたということは、やはり彼らのように豊かさのなかにあったものたちも、まず主の御許に立ち返るべき人、魂の渇きに気づいていない人ではなかったでしょうか。そうでなければ、これほどに厳しい立ち返りの言葉は、語られなかったのではないかと思うからです。

 主は、21節から23節に語られるような、物の豊かさに支えられた盛大な祝いよりも、まず魂の渇きをかくさず、癒していただきたいところを御前に差し出すことを求められるお方です。わたくしたちも、礼拝について、つい目に見えて盛大なものが、素晴らしいように思う錯覚に陥ります。しかし、霊とまことを尽くす礼拝を喜ばれる主は、わたしたちの目に見える、世の豊かさに支えられた大小よりも、まず魂の渇きを御前に告白し、み言葉によって潤いを与えられ、癒され、そして世の中の出来事に、主の正義と恵みとともに遣わされていくことを望むお方です。「正義を洪水のように」「恵みを大河のように」尽きることなく流すため、まず、その流れの源につどい、魂の渇きを潤されることが求められています。

 思えば、主イエス・キリストも、ご自身が十字架における裁きにあげられる直前に、盛大な祭りのさなかに立ち上がり、「わたしのもとに来なさい」と大声で叫んだ方でした。ヨハネによる福音書第737節のみ言葉をどうぞお聞きください。

祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

かの日にアモスが「大河」「洪水」と語った主の正義と裁きは、生けるみ言葉が語られる十字架の御許から、こんこんと湧き出ております。

神様との正しい関係にいれられるため、義とされるためには、主はかならずまず裁きと立ち返りをお求めになるお方です。しかし主の裁きは、けっして恐ろしいだけの日に終わるものではありません。

魂の渇きを御前に差し出してこそ、み言葉の潤いに慰められる幸いに与ります。どんな大きな洪水も大河も、はじまりは、山の頂の細雪、あるいは五月雨、または山の奥にあるわきでる小さな泉です。いまわたしたちはたしかに小さい礼拝をささげておりますが、しかし、主のみ言葉の流れの源につどっているのではないでしょうか。この十字架の基から、流れが尽きることがない大河が始まります。主がわたしたちのために設けてくださった、み言葉の源を、多くの乾ける魂に示していこうではありませんか。そうして、主なる神の正義と恵みの御業は尽きることなく流れていくでしょう。父、子、聖霊の御名によって、アーメン。祈りをいたします。

「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように尽きることなく流れさせよ」、預言者アモスが、かの日に語ったあなたのみ言葉のとおり、今もあなたの正義と恵みの業は尽きせぬ流れとなって、わたしたちの渇きをも潤すものとなりました。憐れみのゆえに十字架の御許に集められ、いまわたしたちは魂の渇きを差し出し、み言葉の潤いに与ることができました。これこそあなたが求められる礼拝です。ここを源として、いっそうあなたの御業を尽きることなくお示しください。多くの乾ける魂のために、あなたが礎を設けたもう、この小さなところから、大きな御業に至る働きのために、わたしたちをお用いください。主の御名によって、祈ります。

« 11月19日説教のポイント | トップページ | 11月19日説教のポイント(郡上八幡伝道所) »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 11月12日説教のポイント(郡上八幡伝道所):

« 11月19日説教のポイント | トップページ | 11月19日説教のポイント(郡上八幡伝道所) »

フォト

カテゴリー

写真館

  • 201312hp_2
    多田牧師「今月の言葉」に掲載したアルバムです。(アルバム画面左上のブログ・アドレスをクリックしてブログに戻れます。)
無料ブログはココログ