11月19日説教のポイント
「神の時に帰る人たち」
聖書 詩編第90篇1-12節
伝道師 三輪恵愛
①神の人モーセの詩は、人生の儚さを歌っている?
多くの人を救ったモーセです。その姿は、新約聖書における全人類の救いのために十字架にかかったイエス・キリストをあらかじめ示すものとも言われます。しかしそのモーセも、120年の生涯を終えて「人の子よ、帰れ」と語る神様の永遠の時へと移されていきました。人生は一度きりであって、やがて終わりが来ることを、わたしたちもよくわかっています。さて彼も同じように、この詩のなかで、人生が「やがて枯れゆく草花のように虚しいものだ」と語っているのでしょうか。
②「隠れた罪をも御顔の光の中に置かれる」神様
人生が一度きりの儚いものであることを知る時、わたしたちは、その終わりからつい目を背け、忘れてしまいたいと思うものです。しかし神様は、つねにわたしたちの命のはじまりと終わりを御手のうちに置いているお方です。8節では罪について語られます。聖書が語る罪とは、小さな背きではなく、その根本にある、神様のほうを向くことができないことを言います。わたしたちが神様との関係を忘れることがあっても、神様のほうは、命の創り主、そして帰ってゆくところにいるお方として、わたしたちとの関係を途絶えることはなさいません。むしろ「罪を御顔の光の中に」置き、関係を保とうとされるのです。
③イエス・キリストの十字架のゆえに神の時を知らされる恵み
神様との関係を忘れることがあるわたしたちにとり、すっぽりと神様のなかに包まれ、関係を再び回復することができる礼拝は、神様との時を味わう瞬間です。こうして神の時に置かれているとき、わたしたちは帰っていくべきところを命あるうちに、あらかじめ知る恵みを与えられます。やがて神の時に帰る日があり、そこにイエス・キリストが導いてくださるからこそ、今与えられている人生を憂いなく、なすべきことに力を注ぐことが出来るのではないでしょうか。礼拝において神の時を垣間見て、また新しい週に人の時に戻っていく。この繰り返しが、やがて帰るべきところへの道を迷うことなく、わたしたちを導いていくことでしょう。
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