11月19日説教のポイント(郡上八幡伝道所)
「 賜物の大小を問わず 」
教会暦、すなわち教会の一年のめぐりによると、一年のはじまりはアドヴェント第一週とされています。今年は12月3日がアドヴェントの第一週となります。ですから、今日と次の週で、教会の一年は終わりとなります。
教会暦では、一年の終わりの頃になると、人生の終わりや、終末、あるいはイエス・キリストの再臨についての聖書が読まれるようになります。わたくしは教会暦に従って、聖書の箇所を選んでおります。この週は福音書を語るべき週ということもあり、今日の聖書の箇所が与えられました。
ここでは、来るべき天の御国についてのたとえが語られています。主人は僕たちにそれぞれの能力に応じて、タラントンを預けて行きました。帰って来てから、それらを増やした僕たちの働きを、ほめています。「忠実な良い僕だ。よくやった」。これが、わたしたちがやがて帰っていく天の御国で、主なる神様よりいただく言葉であれば、どんなに喜ばしいことでしょうか。いえ、これはイエス・キリストご自身が語られた言葉であり、真実です。わたしたちは、神様より預かったものを用いて、僕として働いています。「忠実な良い僕だ。よくやった」、この言葉を目指して、歩んでよいのです。
ところで、まずこの喩えで気づかされることは、預かったものの大小は、わたしたちが互いに取りざたするべきものではない、ということです。
世界中、多くの僕がいまも天の御国のために働いています。たとえ話としては、しかし、ここには、3人の僕しか登場しません。なぜ3人が登場するだけで十分なのか、それは、5タラントンと2タラントンを預けられたものが、主人に褒められているときの言葉が、まったく同じだからです。「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」5タラントンと2タラントンを預けられたものは、まったく同じ言葉で労われています。ここに、そもそも主人のものを預かったもの。すなわち、神様より預かったものを用いて、豊かに仕えるものにとっては、預かった賜物の大小によって、互いに優劣を競うことは、まったく無意味であることが示されています。預ける大小は、神様のものである以上、それぞれの能力に応じて預ける大小を決めるのは、あくまで神様であるということです。いま地上に多くの僕がいますが、賜物を用いている僕は等しく、同じ労いの言葉をいただきます。
それでも、やはりわたしたちは、5と2を比べると半分以下、ということには、気づいてしまいます。しかしながら、驚くべきは、タラントンという金額の多さなのです。ここは、日本の文化のままではわかりにくいとこです。聖書巻末の度量衡によれば、1タラントンは6000日の賃金に相当します。いま、だいたい日給がいくらなのか、はっきりわかりませんが、たとえば一万円だったとして、6千万円。これが、さらに二倍、五倍となれば、相当のたまものを、神様は委ねてくださっていることが、わかるのです。
実際、わたしたちに与えられている、有形無形のたまものは、金額を積んで値を図れる程度のものでしょうか。人生のなかで、神様によって与えられた、経験、能力、人脈、出会い、人の和、そして、信仰。目に見えるもの、見えないもの、それらを含めて、金額で計ったとして、はたしていくらになるのか。おそらくは、お金で買えるようなものではないほど、豊かなものをわたしたちは、神様より預かっています。さらに加えて、マタイによる福音書は、個人についてのことだけではなく、教会の在り方についても語っているものです。一人の人に預けられたものでも豊かなものであるのに、それが群れとなったときの教会に預けられている賜物は、たしかに、2タラントン、5タラントン、いやそれ以上のものがあるでしょう。
したがって、2タラントン、5タラントン、どちらにしても、預けられた賜物によって、主人のために働くことには、優劣を考慮する必要はまったくないことがわかります。
ところが、1タラントン預けられたものは、それでも豊かに預けられているにも関わらず、この賜物を増やすことをしませんでした。彼は、主人が帰ってきたとき、外の暗闇に追い出されます。つまり、天の御国に入ることが出来ないのです。
この1タラントンを預けられたものが、なにもせずに主人の帰りを待ち、主人について勝手に思い込み、言い訳する態度は、筋金入りの怠け者というほかありません。そして、聖書を誠実に読む人は、こうはならないようにと、気を付けるでしょう。
たしかに、主人より預かったものを大いに用いて、増やしていくことは、求められています。そして、大きくなれば嬉しいものです。一方で、預かったものが小さくなったように見えたとき、この1タラントンのものがいうように、タラントンを用いることに惧れをなして、用いることをやめるべきなのでしょうか。ここが、1タラントンを預かりながら、なにもしなかったものが、いったい何を示そうとしているかが、鍵となります。
まず言えることは、教会に仕えるものにとって、1タラントンを用いずに地中に隠しておく、などと言うことはありえないということが言えます。これはどういうことか。すなわち、ここで言われる1タラントンを預かったものとは、あずかった賜物をまったく用いることなく、無為に時を過ごすものを指しています。
わたしたちの教会において、礼拝に招かれ、いまこうして礼拝の一人として、祈りの奉仕に与り、み言葉の恵みに与り、神を賛美する礼拝に与っている以上、これはもうすでに、賜物を用いることがなければ、あり得ないことです。礼拝は、もともと神に仕えるという意味の言葉から訳されました。英語では礼拝をワーシップ・サービスとも言います。もう、こうして礼拝を送っていること自体が、神へのサービスであり、隣人へのサービス、奉仕なのです。ですから、委ねられたタラントンは確かに用いられているのです。
さて1タラントンを預けられたものは、主人が恐ろしい人だから、なくすのをおそれて、隠したと、言い訳をしていました。この言い訳を聞くとき、たしかに言い分があるように思われます。教会においては、ときに礼拝の規模が少なくなる、小さくなるということは、起こりうるかもしれません。いま、日本の教会では、群れが小さくなっていく局面に立たされているところがたくさんあります。神様より預かったものが小さくなっていく悲しさ、焦り、戸惑いがあります。
しかし、ここでわたしたちは踏みとどまって考えたいのです。神様から預かった賜物には、なにがあったでしょうか。有形無形のもの、たくさんあります。そのなかで、神様より預かったもっとも大きな賜物、それはイエス・キリストの十字架の贖い信じ、天の御国を間違いなく目指す信仰でありましょう。
この賜物だけは、絶対に小さくなることはなく、なくなることもありません。礼拝に集って、用いるたびに、大きくなっていく一方なのです。29節のとおり、神より預かった最高のたまものである信仰は「だれでも持っている人は更に与えられて豊かになる」のです。とくに、たとえ群れが小さくなっていったとしても、神より預かった場所に踏みとどまり、信仰をもって礼拝をささげるとき、神ご自身が、いったいどれほど、その賜物を大きく、豊かなものとしてくださるでしょうか。
「それぞれの力に応じて」神様は預けられます。そこには、たしかにわたしたちには見えない、賜物の大小があるのかもしれません。しかし、それはわたしたちの目には図り切れないほど、大きなもののはずです。これをもって、天の御国のために仕え、礼拝をささげ続けるのですから、すべて信仰を与えられて礼拝をささげ、主人のために賜物を用いるものは、みな、やがて天の御国で主人に会いまみえるとき、必ず「忠実な良い僕だ。よくやった」と、格別の労いの言葉をいただくことでしょう。そして、タラントンすら少しのものと語る主人は、「お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」と、天の御国に住まい、神と共に御国での業に与るものとされるのです。賜物の大小にかかわらず、すべて委ねられた信仰を用いて、天の御国のために働く人はすべて、忠実な僕として、天の御国に迎え入れられる。イエス・キリストはそのように約束してくださっています。父、子、聖霊の御名によって。アーメン。祈りをいたします。あなたからいただいた賜物はなんと豊かなものでしょうか。主よ、わたしたちを信頼し預けてくださって、感謝いたします。けっして朽ちることのない賜物をいただきました。もっとも用いるべきところ、この礼拝のために、賜物を用いさせてください。豊かに大きくなった信仰をもって、天の御国にまいります。どうぞ、忠実な良い僕だと、労いの言葉とともにお迎えくださいますように。天の御国に導き給う、御子イエス・キリストの御名前によって、感謝し祈り願います。アーメン。
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