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11月26日説教のポイント(郡上八幡伝道所)

「  キリストは命を賭ける  」

古来より、羊飼いは救い主の姿のモチーフとされてきました。翌週より、アドヴェントがはじまります。救い主の誕生を一番初めに告げ知らされたのも、夜通し、羊を飼うために野宿していた羊飼いでした。彼らは、自らの命を同じほどに尊く、か弱く、養うべき羊と、文字通り、寝食をともにしていたのです。羊のそばにいつもいて、必要なものを与え、安全なところに導く。これが羊飼いの姿でした。彼ら、羊飼いに、わたしたち人間の羊飼いである主イエス・キリストの誕生がいちばんはじめに告げ知らされたことは、意義深いことです。

預言者エゼキエルも、牧者の姿から、やがてくる救い主の姿を語ります。13節、14節にはこのようにありました。「わたしは彼らを諸国の民の中から連れ出し、諸国から集めて彼らの土地に導く。わたしはイスラエルの山々、谷間、また居住地で彼らを養う。わたしは良い牧草地で彼らを養う。イスラエルの高い山々は彼らの牧場となる。彼らはイスラエルの山々で憩い、良い牧場と肥沃な牧草地で養われる。」

いま、わたしたちも羊飼いの呼ぶ声に集められ、郡上の山々に設けてくださった神の牧場に憩いのときを過ごしています。わたしたち、一人一人が、もともとは別々のところに散らされていました。誰一人、ここには、同じ時に同じ場所に生まれ、いままで一緒に生きて来た人はいないのです。そのわたしたちを、諸国の民のなかから、連れ出し、この牧草地に連れてきてくださいました。預言者の語る言葉は真実です。

ところで、この預言者は、このようにも語るのです。12節「まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探しだし、彼らの世話をする」と。

この預言の言葉は、じつは当時のイスラエルにあって、斬新かつ画期的な言葉でした。また、当時の信仰の危機的状況が読み取れます。エゼキエルが預言を語った時代。イスラエルは滅びつつあり、遠く祖国から強制的に連れてこられた民が、バビロニア、異国の文化、信仰、慣習のなかで暮らさざるを得なかったのです。当時の宗教指導者と言われた、いわば人間の牧者は、そのような異教のなかにあって、すでに神の言葉を語ることが出来ず、霊的な導きを施すことができなくなっていました。

古来、主なる神は、時と場所におうじて、人を牧者としてたて、導いてきました。アブラハムの頃、先祖たちの時代には、それぞれの家の家長がたてられ、エジプトから脱出するときには、モーセが、カナンの地に入る時はヨシュアが、士師の時代には、士師たちが、そしてダビデ以降は、王たちが牧者だったのです。しかし、イスラエルという国が滅びたとき、人を牧者として立て、救いの御業を行う仕方は、極まりました。

しかし、こうした人間の牧者が人を牧場へと導くことができなくなったということは、決して神の救いのご計画の失敗ではありませんでした。むしろ、その後に起こる、羊飼いの羊飼いである救い主の到来の道備えだったといえます。

主なる神は、ご自身が直接、牧者となられる時がきたことを宣言します。11節「まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする」ついに、御自分が探し出し、世話をする時がきたと語られるのです。

このことは、主なる神様にとり、すでにご計画のうちにありながら、大きな決断をともなうものでした。どういう仕方で、神ご自身が、自分の群れを探し出し、世話をするのか。それは、神が人の姿を取られることで、成し遂げられることだったのです。

 神が人となる、ということは、いったいなにを表しているのでしょうか。

 11世紀ころに、神というお方の存在を言い表すことで、たいへん深い貢献をした神学者がいました。この学者アンセルムスはカトリック、プロテスタント、オーソドックス、すべての教派において、重きをおかれています。彼は、この言葉から、主なる神を知る研究を深めていきました。「なぜ、神は、人となりたまいしか」。ラテン語で「クール・デウル・ホモ」と名付けられた研究は、神が人となってくださってまで、救ってくださったのは、なぜなのか、極めようとします。

 なぜ、神が人となってくださったのか。そこに、人間からの理由付けは、一切ないと語ります。なぜならば、本来、全能者であり、すべての創り主であり、死ぬことがなく、永遠におられるお方が、人になる理由は、まったくないからです。そのまま、天の高みにおられ、人の生活に関心があろうとなかろうと、ただ御業を行うこともできたお方でした。ところが、神は、イエス・キリストのお姿をとり、人となって、救うことをご決断なさったのです。

 ここに、わたしたちの救いが、まったく神の側のみの決断による、一方的な恵みであることが、明らかにされます。神が人となって、牧者となってくださった。ゆえに、わたしたちは、はっきりと、人の悲惨さと、罪深さと、悲しさを知ります。同時に、神に養われ、導かれているからこそできる愛の業、やさしさ、隣人に仕えること、すべてもろもろの良い物を、与えられ、養われるのです。

 神が人となったということは、人並みの命の危険をどうじに背負われたことを意味します。16節「わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う」

 人の姿をとったまことの牧者は、救いの御業からはずれてしまったものを一人ひとり、たずね、連れ戻し、心の傷も、体の傷も癒されました。もっとも弱ったもののそばにおり、わたしがいると語り、励まし、強められました。弱い人に関心なく、牧者のつとめをはたさない宗教者たちを対決し、十字架にかかられたのです。しかし、この十字架が、かえってわたしたちの命をもっともさいなむ、罪の死をまったく滅ぼしてくださいました。神の公平、これは正義とも訳される言葉、ミシュパートです。神の永遠の命にあずかる正義が、わたしたちに、まことの牧者の命のゆえに、与えられることとなったのです。

 わたしたち改革長老派は、神様に与えられた、誇るべき遺産として、信仰の問答を継承してきました。ハイデルベルク信仰問答、ウェストミンスター信仰問答など、また、わたしたち日本キリスト教会にも「大信仰問答」があり、いま、広く教会で用いられるようにと、改訂作業がなされています。どの信仰問答にも、神を知るところでは、このような問いがなされます。「なぜ、神は人となる必要があったのですか?神のままで救うこともできたのではないですか?」

これにたいして、わたしたち日本キリスト教会の信仰問答は答えます。「いいえ、そうではありません。神が人の姿をとったことにより、人は罪深さを示されるのです」この問答からも言えるように、神は、高いところから、教えを垂れて、その教えを聞いて、よじ登ってくることができるものだけを救うお方ではありません。わたしたち、人と同じところまでさがってきて、すべての人を、むしろ、低められている人をすくうために、人となってくださった方でした。

 先日、木曜日は、在日大韓基督教会と日本キリスト教会の宣教協約、20周年の集いに参加してきました。宣教協約20周年を記念するものに相応しく、過去のことを振り返るだけではなく、将来への宣教の希望を大いに語る集会でした。双方の教派から10代、20代、30代、3人ずつの若者が、それぞれの信仰生活と、日常生活の思うところについて、若者らしい、問題提起がなされたことです。そのうちの一人は、みずみずしい、信仰のとらえ方とともに、ともにいてくださるお方をこのように語っていました。「気が付けば、そばにいてくれる存在」。まだお若い方でしたが、教師をしているとのことでした。そこでの体験から、このようにも語ってくれました。「子供たちのことを叱るとき、たったままで、顔をみることなく、怒鳴りつけるだけでは、子供たちは、いうことをききません。しゃがみこんで、視線をあわせて、理由を聞いてから、わかるように諭すと、誤りを理解します。神様も、わたしたち人間の欠けや愚かさに、へりくだって、視線を合わせてくださるお方だと思います。」たいへん優れた、洞察だと思いました。

 神が人となってくださったことは、このような仕方でありながら、それ以上のことであると思います。神が、わたしたちと視線を合わせるように低くなられるということは、十字架に命をかけられることを決断されたということですから。命をかけて、キリストとなられることを、神は、決断されました。

 次週より、キリストの降誕を待ち望む、週に入ります。教会の新しい一年がはじまります。クリスマスのまことの喜びを深く味わうため、神が人なって、自ら、群れの世話をするお方になってくださったことを、心に留めつつ、喜びのアドヴェントをお迎えになりますように。父、子、聖霊の御名によって。アーメン。

主よ、あなたご自身が「自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする」と宣言され、聖なる神でありながら、わたしたちと同じ人となってくださいました。山々、谷底をめぐり、探し出し、ここに導いてくださいましからこそ、わたしたちは群れとなり、養われ、憩いの時を過ごせます。人として、命をささげることになる死の苦しみ以上に、主よ、あなたはまずわたしたちを愛してくださいました。寝食をともにするほどに、いつもそばにいてくださる羊飼いである主よ、あなたが惜しまずに捨ててくださった命によって、わたしどもは、永遠の命を約束されました。これに応えるほどの愛をおささげしたいと存じます。どうぞ、尊い恵みのもとに、正しき道へと、導いてくださいますように。

 羊飼いの羊飼いである、救い主イエス・キリストの御名前によって、感謝し、祈り願います。アーメン。

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