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11月5日説教のポイント(郡上八幡伝道所)

「  神様が招いておられるから  」

 先日、市役所課税課から電話がありました。事務的な声で、電話口の方がこういうのです。「宗教施設の非課税の証明のために書類を出してください。」まあ、必要なものなのですね。「わかりました、必要な書類を教えてください」。謄本や、建物の図面のほかに、「『宗教行為』を行っている証明となるものを提出してください」というのです。すこし面喰いました。「なんのことですか?」「つまり、その、建物で行っていることが、宗教行為の証明です」。しばらく説明を聞いていて、週報や月報で証明になることがわかりました。非課税を証明するための証明です。あとで考えて、おかしくなってしまいました。法的な言葉で言い表すと、「宗教施設で行う、宗教行為」が、わたしたちが神様に礼拝をささげることなのだそうです。人の言葉で説明するとなんと無味乾燥な言い方になるのかとおもいました。こういった人の言葉でしか表現できないとするならば、今、こうして少人数でもっている集会は、不思議なものに見えるのかもしれません。

 しかしわたしたち、神様の言葉によって招かれた民は、礼拝をそのようには考えません。神様の言によって招かれ、神様を心から賛美し、神様の福音に赦しを確かめ、神様の言に日々の生活へと押し出されてゆく。礼拝に招いてくださる神の言が高らかに響き、わたしたちの耳に聞こえたからこそ、わたしたちはその声に従っているにすぎません。それは、神に創造された人間の、本来の生きる姿です。わたしたちが今、捧げている礼拝は、今日のみ言葉の13節によれば、「人の言葉を神の言葉として受け入れた」からこそ、起きている出来事なのです。今、わたしたちは神の言によってはじめられた礼拝に与っています。なんたる光栄なことでしょうか。

 さて、今日与えられたみ言葉、テサロニケの信徒への手紙一は、パウロ自身が書いた、もっとも古い手紙であることは、ほとんど間違いないと言われます。ですから、わたしたちはいま、初代の教会の礼拝で語られた、はじめの福音の説教に触れていると言えるでしょう。

まず初代の教会で、福音を宣べ伝える業がどのように進められたのか。注目をしたいところは、9節のところです。

兄弟たち、わたしたちの労苦と骨折りを覚えているでしょう。わたしたちは、だれにも負担をかけまいとして、夜も昼も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えたのでした。

使徒言行録や、ほかのパウロの手紙によりますと、パウロ自身はテント職人であったと記されます。彼は自らテントを作ることで、自ら生活の資を得て、伝道をしました。いわゆる天幕伝道です。

わたしが伝道者を志すことを考え始めたとき、このパウロの天幕伝道にふれて、一つの心にかかるものがありました。天幕伝道が福音を述べ伝える基本なのではないか、という考えです。献身の志を与えられたとき、すでに日本キリスト教会の教会員でした。日本キリスト教会は、教職として、生活を保障されながら、宣教に勤めることとなっています。伝道者にとってはたいへんありがたいことでありながら、パウロたち初代の伝道者や、天幕伝道をなさった先輩方の歩みに、引け目をもつのではないかと思っておりました。

しかし先輩牧師が語ってくださいました。「たしかに生活の資を与えられることは、深い感謝でありながら、生活の負担を支えられていると言えるかもしれない。だからこそ、支えられながら深い感謝をもって、全身全霊、宣教に専念できるのではないか?支えられているからこそできる、時間をかけて行う細やかな牧会があるはずだ」と諭されました。たしかにいま、生活を支えられているからこそ、昼も夜も、神の福音を宣べ伝えるために専念することができます。じっくりと時間をかけてみ言葉と向き合い、また、教会のために働くことができております。福音の宣教を心から願い、祈っておられる教会員のみなさまの信託を得て、いろいろなところにみ言葉をたずさえて、出かけることができております。

9節の御言葉によると、こうして夜も昼も働きながら、神の福音を述べ伝えたパウロたちでした。そうして10節には、パウロたちがどのようにふるまったか証しをするほどに、テサロニケの信徒たちとパウロたち伝道者のあいだに、主にある交わりが生まれました。

これを踏まえて11節~12節を読みます。「あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、父親がその子供に対するように、あなたがた一人一人に呼びかけて、神の御心にそって歩むように励まし、慰め、強く勧めたのでした。」この11節と12節が示すように、パウロたちは、主なる交わりが生まれたテサロニケの教会の人たちとの、一人ひとりとの対話をも重んじました。

ここに、13節にある「人の言葉を神の言葉として受け入れる」ために、欠かすことのできない出来事が記されています。それは、礼拝のなかで語られる言葉が、神の言葉として聞かれるために、一人一人に呼びかける言葉もまた、同じく必要であるということです。

礼拝で語られる人の言葉が、神の言葉として受け入れられるために、パウロたちが一人一人との対話もまた大切にしたということについて、思い当たることがありました。先日、岐阜教会の方から、嬉しいことをお聞きしました。「今日は、説教で語られた通りのことが起こったねえ」と。それも、いろいろなところで、そういった感想が語られるということです。これは、説教者として、冥利につきることです。一つは、みなさまが説教をよく聞いてくださっているということ、もう一つは、その説教と、日々の出来事とのかかわりが、起こされている恵みです。

わたしはまだまだ若輩ですし、人生経験も牧会経験も浅いのです。そういったなかで、さきほど触れように、皆さまに支えられながら、日々、み言葉とがっぷり四つに組みあって、神様がまずわたしに語られた言葉をよく聞きとり、つぎに聞き手の側にたって、神様と対話を重ねていきます。

この聞き手の側に立たなければならないとき、聞き手との個人的な交わりや対話が生きてきます。拙い奉仕をささげるなかで、説教と日常の信仰生活とかかわりを喜んでくださる感想を聞くと、人の言葉でありながら、神様の言葉を取り次ぐという役目の報いを受ける思いです。そしてこういった交わりのなかに、公の場で群れに対して、語り手を超えたところから語られる言葉と、個人との関わりの中で交わされる言葉の交流があるのだと思うのです。

パウロと、そしてこのテサロニケの信徒への手紙一の共同の差出人である、シルワノとテモテも、テサロニケの教会に遣わされたときに、そこに生きる人々と、語り合い、笑い合い、ときに苦しみ、悲しみもわかちあって、共に生きたのでしょう。そうするなかで、人が語る言葉であるにも関わらず、一人一人に呼びかける、福音への招きの声が、神の言葉として受け入れられる出来事が起きたと思うのです。

 パウロは、12節では「父が子供に対するように、一人一人によびかけて」と言い表しています。福音を呼びかける相手を大切にする説教を心掛けたパウロならではの表現だと思います。もちろんこれは、パウロのたとえです。このたとえを用いながら、父のように子供に呼びかける本当のお方は、だれであるかを気づかせようとしています。説教者は、いかに年長であっても、呼びかける一人一人にたいして父にはなれません。しかし、説教者を超えて、呼びかける一人ひとりの人生に、はじめからともにおられる天の父が、いまも子供一人ひとりに呼びかけておられる。説教者や、あるいは神の言葉をという点でいれば、聖書朗読者も同じです。このように人の言葉を語るものが、呼びかける相手の、生きてきた歩みをすっかり知らなくても、聞き手は、人の言葉を超えたところから、神様の言葉による救いへの招きを受けているのです。

 こうして、パウロたちが福音を宣べ伝えたテサロニケの教会は、神の言葉を受け入れ、神の招きによって、ご自身の国と栄光にあずかることとなりました。その福音も実りを喜ぶパウロは、13節でこのように語ります。

 このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。

 パウロたちは絶えず神に感謝しているということです。ここに、人の言葉ではなく、神が語られた福音を語り、聞くものの間の正しい交わりが、端的に言い表されていると思います。もし、パウロたちが語る言葉が、人から出た言葉であり、パウロたち自身の栄誉や、権威を引き換えにするような、この世的な知識や教えであったら、受け入れてくれたテサロニケの人たちに感謝するかもしれません。しかしパウロは、神に感謝します。なぜならば、パウロたちもまたイエス・キリストの救いに与った罪びとだからです。彼らも福音に救われたのです。彼らもかつて聞いた福音の救いを、どうしてもテサロニケの人たちに運んで、救いを確かにしてほしい一心で、夜も昼も福音のために働いたのでしょう。

 私自身も、伝道者となるまえに、イエス・キリストと引き合わせてくださった、多くの説教者が語る神の言葉に助けられました。もちろん牧師先生への恩義も忘れられませんが、なによりも、神が語るイエス・キリストの福音によって贖われた喜びが、すべてに先立ちます。あの喜びがあればこそ、この神の言葉に招かれたわたしたちがささげる集会のなかに、「信じているもののなかで現に働く神の言葉」を確信します。神が招いてくださるからこそ、人の言葉が神の言葉として語られる出来事が起こされているのです。

説教の冒頭では、いま、わたしたちがしていることが、世俗の言葉では、無味乾燥に語られるかもしれないといいました。しかしそのような外側からの表現では、まったく言い表すことのできない、神の言葉による呼びかけが、いま、ここで現に起きているのです。神の言葉によって招かれている人がここに集まっている以上、これは、神が招いているからこそ捧げることができる礼拝なのです。この礼拝において、一人ひとりに呼びかけて、御心にそって歩むように励まし、慰め、御国の栄光に与らせてくださる、神様がみなさまを招いておられます。父、子、聖霊の御名によって、アーメン。祈りをいたします。

主なる神よ、あなたはいと高きところにおられ、わたしたちの救いのために、わたしたちには思いもよらない仕方で、御業を起こすおかたです。拙く、欠けの多い、語られる言葉を用いて、あなたはみ言葉を語ることを選ばれました。わたしたちにもわかる言葉で、福音を語ってくださり、感謝をいたします。

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