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11月29日祈祷会 ルツ記第4章

「 家を絶やさぬ責任のあるお方 」

 ルツ記もいよいよ終わりです。第四章、最後の章に入りました。短い書物でしたが、それだけに各章が伝えようとするテーマが、わりと明確であったとように思えます。失意の底から、ベツレヘムに帰ってきたナオミとルツでしたが、神様のご差配により、少しずつ希望が見えてきたようです。第三章では、ルツとボアズの仲が、かなり近づくことになりました。第四章では、この神様が引き合わせたもう二人の出会いが、御心にかなって実を結ぶところが描かれます。

 はじめに、ルツ記全体の主たるテーマとして考えられることを申し上げておきます。ボアズが「家を絶やさない責任のある方」と言われていました。このボアズの姿は、ひいては「主なる神様こそ、家を絶やさない責任のある方」であることを示しています。ここでは、ルツとボアズが結ばれることで、その血筋は絶えることなく、ダビデを通って、やがてはイエス様までいきつきます。そのことも重要なことです。また、神様は、一つの家を存続するということのみならず、主の民として起こされる民も、絶やすことがないようにしてくださっています。

 このことについて、今日は三つの問いを持ちながら、分かち合っていきたいと思います。

 まず一つ目の問いです。三節をもう一度、お読みします。「ボアズはその親戚の人に言った。『モアブの野から帰ってきたナオミが、わたしたちの一族エリメレクの所有する畑地を手放そうとしています。』」

 ここで、みなさまは「あれ、ナオミは畑地を手放す、なんてこと言っていたかな?」と思われなかったでしょうか。一つ目の問いは、なぜ、ナオミの畑地が買い取られることになったのか?というものです。

 じつはこの会話は、律法を知っているボアズたちだからこそ、成り立っています。ここに関わる律法は主に三か所です。先を急ぐので、本文は読まず要約を紹介します。ご関心ある方は、あとで確認しておいてください。まず民数記第278節以下のところに、ある人が死んだとき、その土地は、子孫か、子孫がいない場合は兄弟に相続されることがうたわれています。残念ながら、寡婦となってしまった人には引き継がれません。なぜならば、つぎにその人がなくなってしまっては、畑地は荒れ野になってしまうからです。一時的に所有をしてもよいのですが、生きているうちに、子孫をもつ人に引き渡すことが求められています。子孫が存続されることを定めている律法は、申命記第255節以下です。「家名の存続」という小見出しで、家を継承させることを定めています。最後に、一族をあげてナオミやルツを保護しようとすることには、申命記第2417節以下が関わってきます。エジプトで奴隷とされていたときの辛さや苦しみを知る民として、寄留者、孤児、寡婦など立場の弱い人を助けることが定められていました。ナオミは寡婦ですし、ルツは寡婦と同時に、異邦人ですから寄留者です。ですから、ボアズだけでなく、ベツレヘム中の人たちが、どうにかこの二人の女性が救われることを願っていたことは、間違いないでしょう。

 律法を並べ上げましたが、ここには、「主なる神様ご自身が、救われた人たちを、律法によって助けておられる御心」が示されています。とかく細かい規則の多い律法で、読む前から、律法という言葉には緊張を覚えてしまうわたしたちです。しかし、良く読んでいけば、律法はわたしたちの生き方を助け、民を存続させるために、それを与えてくださったことが、感じられるようになります。これは律法に示される「主の公平と正義」とも言うことが出来るでしょう。

 こうして律法に準じて、ボアズと、もう一人の責任ある人、そして長老十人の立ち合いのもとに、適正なプロセスが進められていきます。次に考えたいのが二つめの問いです。6「すると親戚の人は言った。『そこまで責任を負うことは、わたしにはできかねます。それでは、わたしの嗣業を損なうことになります。親族としてわたしが果たすべき責任をあなたが果たしてくださいませんか。そこまで責任を負うことは、わたしには出来かねます。』」

さて、なぜこの人は、責任を負いかねたのでしょうか。そこには、多少打算的で、器の小さい考えがあったことが理由になります。さきほどの律法にも関わることですが、この「親戚の人」は、ナオミだけならいったん引き取ろうとしました。ナオミはすでに高齢になっており、寡婦でしたから、結婚せずに、引き取るかたちでお世話することになります。そうすると、ナオミの土地はやがて「親戚の人」のものになります。ところが、まだ年若いルツが娘としていますので、この場合はただ引き取るだけでなく、家の存続のために結婚することが求められます。そうすると、土地はルツの子孫のものになります。この「親戚の人」は、それでは土地は自分の直系の子孫のものにはならないので、意味がないと考えたのです。つまり、自分の血筋と、ルツ以降の血筋のあいだに線を引いているのです。

こうして「親戚の人」は、ナオミ、ルツと彼女たちの土地を引き取ることを断念しました。こうしてボアズのもとにルツは嫁ぐことになります。ボアズとしても、この土地はルツ以降の子孫のものであることを知っていましたが、彼にとって、それは小さなことだったのでしょう。ここには、ボアズの「気前のよさ、寛大さ」が表れているように思えます。だれにでも、弱っている人、困っている人に惜しむことなく恵みを給う、神様の姿を表しているようにも思えるところです。

最後に三つ目の問いです。11節の途中から12節までを読みます。「どうか、主がイスラエルの家を建てたラケルとレアの二人のようにしてくださるように。また、なたがエフラタで富を増し、ベツレヘムで名をあげられるように。どうか、主がこの若い婦人によってあなたに子宝をお与えになり、タマルがユダのために産んだペレツの家のように、御家庭が恵まれるように。」

 ベツレヘムの住民たちがこぞって、ボアズとルツの結婚を喜んでいます。この祝福の言葉は、よろこぶ住民たちの口から自然に出てきた祝福の言葉のようにも思えます。ところが単なる、お祝いの言葉なのかと言いますと、実は意味が隠されている言葉なのです。

 まず、なぜラケル、レアというヤコブの二人の妻の名前が出てくるのか。十二部族の母ともなった女性たちですから、模範的夫人という意味もあるかもしれません。ところが、創世記第3516節以下によれば、ラケルはエフラタとここベツレヘムのあいだに差し掛かったとき、産気づいてベニヤミンを産みます。そして、産みの苦しみからそこで命を落とします。俗っぽい言い方をすれば、あまり縁起のいいことではありません。それから、タマルとユダのことについて言えば、これも創世記第38章によると、舅と嫁のあいだの再婚です。たしかにボアズはユダ族の直系であることが、物語の最後の系図でわかります。しかし、ユダとタマルの結婚はノーマルなものではなかったのです。そこからペレツが生まれました。しかし祝福の言葉として住民たちの口から語られます。

 この、ラケルがベニヤミンをベツレヘムで産んだということ、ボアズの出自であるユダ族に触れていることには、ルツ記以降のイスラエルの歩みが暗示されています。すなわち、ベニヤミン族から初代の王サウルが出て、ユダ族からダビデ王が生まれます。そして、ユダ族とベニヤミン族が、南王朝を形成し、やがてはバビロン捕囚の苦難を経験します。

 じつはルツ記がいつ書かれ、まとめられたか、については多くの主張がなされています。ダビデ王家の血筋の正統性を主張するのであれば、王朝中期ではないかと言われます。しかし、いまは、やはり捕囚から解放されたのちに完成したのではないかという意見が支持されます。それは、この書物が単純に血筋の正統性を保つためにあるのではないということ。つまり、ダビデ王家が滅んだとしても、さらにその先にある、まことに買い取ってくださる救い主が、ダビデ王家のあとに必ずこられるという預言的な意味あいが含められていると言えるのです。ですから、ルツ記はダビデ王家のあけぼのを語っているように思えて、じつは、ダビデ王家を超越した、人類全体を、ボアズのように買い取ってくださる責任をもっている方を示していると、言うことができるでしょう。

 ルツ記全体のまとめにはいりたいと思います。ルツ記、士師記とサムエル記のかけはしとして、士師の時代から王国の時代をつなぐ役割をもっている書物として読んできました。たしかにその通りだと言えます。ところが、ルツ記全体の素朴なストーリーと、ボアズの姿に示される、買い取る、言い換えれば贖う責任を持つ全能者の存在の暗示を考えれば、これは十分に旧約にとどまらず、新約聖書にまで架け橋をかける書物であることがわかります。マタイによる福音書の第一章は、系図からはじまります。ちょっと開いて、ルツとボアズを探してみましょうか。さらに読んでいくと、バビロン捕囚のことも書いてあって、そして、イエス様の誕生につながっていきます。このかたこそ、人の形をとられた神、ご自身の命で、わたしたちを買い取る責任を果たした方です。ここまで行き着きます。

 このお方、つまり神様は、教会とともにあって、血統が決して絶えないようにしてくださっています。どういうことか、ボアズがルツをめとって血統を絶やさなかったように、神様は、教会を、いうなれば娶って、そこに新しい命を生み出しておられるからです。みなさま「母なる教会」、あるいは「母教会」という言い方を聞いたことはないでしょうか。古くは、キプリアヌスという3世紀の教父の言葉です。これは、たんに母国とか、母校とかと同じものではなく、父なる神と、母なる教会が交わるときに、新しい命が洗礼によって生まれる、神様の真実を説く言葉です。こうして、責任ある方は、教会において、わたしたちの血統を絶やさないようにしてくださっています。

ところで、第三章でナオミがルツとボアズの出会いのためにベストを尽くす姿をみました。わたしたちも、ぜひ、父なる神様と母なる教会の交わりにお任せするだけでなく、この主の新しい民の血統をたやさないために、ベストを尽くすことが求められているように思えます。ぜひ、洗礼を願う人を、また信仰告白を決心して、主なる民の血統として新しく生まれ変わる方々を探していきたいと願います。これは個人的な家名の存続よりも、もっとスケールの大きいことです。わたしも祈って、決してごり押しではなく、しかし最善を尽くして、また祈ります。今日はここまでにいたします。

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