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12月3日説教のポイント(郡上八幡伝道所)

欠けのあるところに

聖書 コリントの信徒への手紙一第1章1-9

       伝道師 三輪恵愛

「  欠けのあるところに  」

アドヴェント、第一週の主の日を迎えました。教会の新しい一年が今日より始まります。そして、まずイエス・キリストの誕生を待つことから、教会は一年の歩みを始めます。こうして考えると、あらためて、教会は「待っている」群れであることを思い起こさせられます。そうです。わたしたちは待っているのです。

 「待つ」ということで、この春、着任して以来、この教会における牧会を振り返りますと、わたしは何回か皆さんを待たせてしまいました。礼拝の定刻に間に合わなかったこと、致し方ないとはいえ、申し訳なく思っています。待たせる方は、心のなかで申し訳ない気持ちでいっぱいになります。お待ちになっているほうは、「必ず、来るだろう」と信じつつ、「まだかな、まだかな」と心配しながらお待ちになられたと思います。

 わたしは「待たされた方」の身にもなったことを思い出しますと、期待をしながら待ち続け、やっと待っていたものが到来したときの喜びは、ひとしおであったことを思い出します。わたしも、お待たせしたにも関わらず、みなさんが笑顔で迎えてくださったことを嬉しく思いました。 

待つ者の幸いは、必ず来られるお方の到来が、待てば待つほどに増し加えられるところにあるのではないかと思います。今日のみ言葉には、7節に「その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます」と語られていました。このアドヴェントの時は、とくに、主イエス・キリストの現れを待ち望むわたしたちにとって、期待に胸を躍らせながら過ごすときでもあります。

ところで、このアドヴェントは、なにを待つのでしょうか。当たり前のことを、あらためて聞いてしまいます。イエス・キリストの誕生を待つ、その通りです。今年は24日がクリスマスになりました。この日、降誕をお祝いする礼拝がささげられることです。

しかし、単に、イエス様の誕生日をお祝いする日を待つことがアドヴェントの意義をすっかり満たすことになるのでしょうか。結論から言いますと、そうではありません。わたしたちは、救い主イエス・キリストが再び来られる日を待ち望む、民でもあります。日本キリスト教会信仰の告白には、「終わりの日に備えつつ、主が来られるのを待ち望みます」とあります。わたしたちは、「必ずもう一度、来る」と言われた主の言葉を信頼し、待ち続けている群れなのです。

さて、今日のみ言葉は、コリントの信徒への手紙一の冒頭のところでした。ご存じのように、パウロがしたためた各書簡には、それぞれ、執筆を決意させた動機があります。コリントにおける動機はなんだったのでしょうか。

コリントの信徒への手紙一は全16章からなる、比較的長い手紙です。書かれてある内容は多岐にわたります。コリントの教会は、それだけ多くの具体的な問題を抱えていたのでしょう。ですから、これらの教会内における数々の問題を指摘し、間違いをただすことが、手紙の執筆の動機と言うことになります。それであっても、試みに、執筆の動機を一言でまとめるとすれば、どうなるでしょうか。

この手紙の最後のところ、第1622節では、この一言が記されます。短い言葉です。「マラナタ、主よ、来てください」。これもやはり、主イエス・キリストの再臨を待つ言葉です。そして、さきほど触れた第一章7節の「主イエス・キリストの現れを待ち望む」という言葉、ともあわせて考えますと、パウロは、この手紙によって、イエス・キリストの再臨を待つことを諦めようとしている、あるいは忘れてしまっているコリントの教会を、ふたたび待ち望む教会にたてなおそうとしているのです。

ひいてはこの言葉、世俗的な問題にからめとられてしまっているすべての教会に向けられていると言えるでしょう。地上の見える教会の宿命は、この世に生きているということです。それは使命です。そのなかにあって、つい、イエス・キリストが再び来られる、「すでに」救いははじまっていながら、「いまだ」に完成していない時を歩んでいることを忘れてしまうことがあります。アドヴェントのときにあって、わたしたちは常に、待ち望んでいる者であることを思い起こさすことは、大切なことです。

パウロは、この手紙のなかほどでは、けっこう厳しい指摘をします。それは教会を建て直すためです。その反面、手紙の書き出しでは穏便に言葉を選びます。これは、厳しい指摘をするまえに、手紙の差出人と、受取人は、主のまえにあって、同じ召しだされたものであることを断るためです。ここに、ただ憤りをあらわにするだけではない、配慮が見られます。厳しいことを語るまえに、これは、あなたのためを思って語られることだと断れば、聞く耳ももつものです。

とくに聞く耳を持たせるための配慮に満ちるのは、2節です。「コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。」

「イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります」、そのように語り、パウロは、あなたたちコリントの教会の人たちとわたしたちは同じ主を信じるものですよ、と思い起こさせるのです。

ところで、この「コリントにある神の教会」という言葉は、わたしたち、「教会」と、すでに日本語に訳されたものに親しむものにとっては、もはやなんの感動もない当たり前のことばかもしれません。しかし、要注意です。「コリントにある神の教会」という言い方は、じつは尋常な言い方ではありません。「教会」、ギリシャ語でエクレシアと呼ばれる言葉です。「エクカレオー」、「外側へと呼び出される」という意味の動詞からできた言葉です。もともと特別に召集されたものが集う政治的な集会、議会を意味した言葉でした。ですから、わざわざパウロは、「神の教会」と断りを入れるのです。わたしたちは、「神の呼び出し、特別な召集によって群れとされたのです」と、注意を促しているのです。けっして、人間的な仲良しこよしの寄合所帯ではない。神が頭となっておられ、わたしたちの魂を一つ一つ呼び出さなければ、教会は存在しえない、ということをパウロは語るのです。そういった意味では、ここ郡上八幡の小さな教会も、神の特別の招きによって、呼び出されたものたちの群れといいうことでは、「郡上八幡にある神の教会」と、呼ばれるべきところです。

 さて、パウロは、今日のみ言葉の後半のところで、ではなぜ、コリントの信徒たちが、神より招かれることとなり、今も招かれているのかを語ります。コリントの信徒だけに限ったことではなく、すべての諸教会が、なぜ、待ち続ける民として招かれ、いまも招かれ続けているのかを。

それは、今日のみ言葉では、二つの言葉から言えるでしょう。一つは、7節の「あなたがたは賜物に何一つ欠けるところなく」、そして、8節「わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころがない者にしてくださいます」です。つまりここで言わんとしていることは、わたしたちは、もともと欠けのあるものであったけれども、主イエス・キリストとの交わりにあずかって、欠けを満たされ、非のうちどころがない者にしていただける、ということなのです。

じっさい、わたしたちは考えます。なぜ、こうして神の招きを受けて、み言葉に聞く幸いに与ることができるのか。しかも、やがて来る、イエス・キリストの再臨の日を、畏れるのではなく、喜びながら待ち続けることができるのか。それは、わたしたちが、もともと「欠け」のあるものであったから、でありましょう。「欠け」のあるところに、キリストが来られ、すでにそこを満たしてくださっておられるのです。

アドヴェントのはじまりにあって、キリストはどのように、わたしたちの欠けを満たしてくださっておられるのか、このことも思い起こすようにと導かれています。

一つには、主イエス・キリストが人として誕生された、ということは、イエス様を通して、主なる神は、完全なる人の姿を示してくださったということです。すなわち、「この人を見よ」、エッケ・ホモと言われるたびに、この完全なる人となられた神の姿を知れば知るほどに、わたしたちは、自らの欠けを、思い知らされます。しかしながら、主は、だからこそ、その欠けを、わたしが満たしてあげようと、言ってくださる。イエス・キリストと交わりを篤くするたびに、欠けを知らされますが、あのお方は、ただ知らせるだけでなく、そこに、わたしが働こうと言ってくださるお方です。

もう一つに、クリスマスにちなんで。主イエス・キリストは、人の姿をとるにあたり、いきなり、成人した大人の姿で来られたのではなく、赤子の姿を取られたということです。人間のもっともか弱い姿です。赤ん坊。一人では、なにもできない。まったく、恵みを受けなければ、一日として生きることのできない、か弱い存在を取ってくださった。ここに、人間の真の姿は、赤ん坊のように、恵みを一方的に受けなければ、一日として生きていけないものであることを、わたしたちは示されるのです。一部の欠けどころではなく、すべてを満たされなければ、一日として、生きることはかなわない。これが、わたしたちのまことの姿ではないでしょうか。

であれば、こそ、このことを思い起こすときに、わたしたちは感謝とともに、主イエス・キリストと豊かに交わり、今与えられている賜物のすべてが、神よりのものであることを、思い起こすのです。これが、わたしたちをしっかりと主イエス・キリストを通して神との交わりにとどめ、再び来られる日を待ち望むものとしてくださるのです。

とかく、現世的な生き方は、「欠け」に恥じ入り、「欠け」があることを軽んじ、さげすむことです。みな、「欠け」を隠さなければ生きていいけないような世の中です。ほんとうは、だれもが満たされなければならない「欠け」を抱えているにも関わらず。わたしたちは、いま、こうして神のエクレシアに特別に招かれて、日々、溢れんばかりに「欠け」を満たしていただいていることに感謝しましょう。神を待ち望むわたしたちです。この待ち望むという言葉、ギリシャ語で「アペクデコマイ」と言いますが、家の外まで出て行って迎えるという意味の言葉です。待つ人は、いまか、いまかと待ち切れず、玄関の外まで出かけていって、待ち望むものです。「欠け」を満たしてくださるお方は、待つ人のもとへ必ず来てくださいます。人として、お生まれになってくださったように。

主イエス・キリストが最後までみなさんとともにあり、しっかり支えて、主イエス・キリストの日に、非の打ちどころのない者にしてくださいますように。父、子、聖霊の御名によって。アーメン。

 完全であり、聖なるお方、主なる神よ、あなたのご栄光の輝きのまえに、わたしたちを呼びだしてくださり感謝します。しかも完全ではなく、欠けの多い者であるからこそ、そこを満たしてくださるために、特別に招いてくださり感謝します。あなたのお越しをいまか、いまかと待ちきれぬ思いで過ごすわたしたちに、約束は必ず果たされる希望のために、クリスマスの喜びを再び与えてくださり感謝します。キリストの現れを待ち望むわたしどもにとり、すでに果たされた救い主の降誕は、唯一の希望です。欠けのゆえにこそ、救い主が必要なわたくしたちに、あらためて満たしてくださる方への感謝を喜んでささげるものとしてください。かつて来られ、またやがて来られる、すべての完成者イエス・キリストの御名前によって祈ります。


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