12月6日祈祷会 サムエル記上第1章
「 苦しい胸の内を注ぎだして 」
ヨシュア記からはじめてきましたが、いよいよ今週よりサムエル記に入ることになります。ここに至るまで聖書は、士師の時代を記していました。ここからが、王国の時代ということになります。士師の時代とは、これまで見て来たように、イスラエルが異民族との摩擦のなかで、危機に瀕したときに、神様がこれという人物を見定めて、緊急かつ一時的にイスラエルを導かせるという救いの御業がなされてきました。このサムエル記からは、一時的にではなく、いつも国を治める王がたてられることとなります。そして、読み進めていきますと、神様はこの王が民をいつも治める状態にあることに、肯定的ではないことがわかってきます。このことは、後ほど、サムエル記、列王記にも共通する大きいテーマとして扱うことになります。
20節に、サムエルという人の名前の意味が語られていました。シェームが「名前」、エルがご存じのとおり「神」の単数形です。シェーム・エル、「神の名前」というほどのだいそれた名前ですが、今日読んだ第一章のサムエルの出生や、その後の働きを考えれば、サムエルはたしかに神が名前を置いた人物でした。ふさわしい名前だと思います。
すこしだけ、サムエル記、そして列王記のことについて紹介させてください。じつは紀元前のころの聖書は、サムエル上下、列王上下の4巻本は、もともと一冊の本であったと言われます。そしてタイトルもサムエル記、列王記ではなく、まとめて「諸々の王国」と言われていたようです。ギリシャ語に訳されたときに、それぞれが四つに分けられ、α、β、γ、δと呼ばれるようになりました。この四つに分けたときの分け方は、単純に書き写した巻物の寸法に合わせたという理由、そして、書いてある内容が大きく転換しているところから分けたと言われます。
もともとは列王記下までが一冊だった点から言えることは、この王の時代のはじまりからバビロン捕囚で王家が滅びるところまでが、この書物を遺した人の歴史的な視点ということになります。この著者は、ダビデ王家のはじまりから終わりまでを書き残そうとしたと、言えることになります。
さてそうなると、これから読み進めていく四つの書物は、単純に、ダビデ王家の盛衰を記録として残そうとしたことになるのでしょうか。はじめに結論めいたことを語るとすれば、当然、単なる王家の記録ではないということが言えます。大きな言い方、すなわち聖書全体について言えることは、すべてはイエス・キリストの証しに集中していきますから、旧約の歴史は、救い主到来以前の神の御業の記録ということになります。したがって、この4つのダビデ王家に関わる歴史も、その中心に隠されている主題は、ダビデ王家の支配のなかに現れた神の御業の記録ということになります。そこには、ダビデ王家の素晴らしさや、イスラエル王国の偉大さが誉め讃えられるのではなく、むしろ、王家の神様への背きと失敗、王国の滅亡まで、しっかり書き残されます。そこに現れていた神の御業を、後世に読む人たちが確かめ、どの時代にあっても、必ず現れている神の御業を見逃すことがないように、そういったのちの世代の信仰者へ証しを立てることが、この歴史書の本質だと思います。
さて、第一章では、この歴史書が記そうとすることのはじめが語られます。サムエルの母ハンナの苦しく悲しい胸の内が、神様の御前に注ぎだされ、やがて祈りは聞かれていくという内容でした。
前半8節までが、ハンナの悲しい身の上を語るところでした。当時、一夫多妻制は、積極的ではないですが律法で認められていました。それほどに、子孫を絶やさないことは、民族単位で守るべき律法の義務だったからです。とはいえ、このエルカナの家は、一夫多妻が理由となって不和が生じていました。子供が授かれないハンナは、もう一人の妻、ペニナからの仕打ちに悩まされ、エルカナもあまり理解のある夫ではなかったようです。暗に、一夫多妻の問題点を指摘しているようにも思えます。
しかし一夫多妻について論じるより、さらに注意するところは、この出来事は、神様が、5節「ハンナの胎を閉ざされた」から起きているということです。
なぜ、こんな無体なことを神様がなさるのか、と思ってしまいます。そうですね、はじめからハンナを子宝に恵まれるようにすることも、神様はおできになったでしょう。しかし、そうなさらなかった。なぜなのでしょうか。
まず大きくこの問いに答えるとすれば、それは、のちにこの聖書が礼拝のなかで読まれたときに、神様が人に信仰を与え、お救いになるためにそうなさったと、いうことになります。さきほど、なんのために、サムエル記、列王記、はてはすべての歴史書が書き残されたのか、という理由にふれました。後世、読む人に信仰が与えられ、さらに励まされるためです。聖書に書かれているすべての事柄は、読まれ、解き明かされるときに、その時代にあって救いの御業が起こされるために、神様がなさったということになります。そうなると、この第一章でなされている神様の業、つまり、ハンナの胎が閉ざされたのは、わたしたちの救いのためだと、言うことが出来ます。
子供が授からないことで、たしかにハンナは思い悩んで、苦しむことになりました。ところが、このことが、ハンナを深い祈りの人へと導いていきます。10節、11節の祈りの言葉をもう一度、読んでおきます。「万軍の主よ、はしための苦しみを御覧ください。はしために心を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を主におささげし、その子の頭には決してかみそりを当てません」、頭にかみそりを当てないという誓いの言葉は、サムソンのときにもありました。一つの請願の言葉です。
この祈りのときに、はじめは彼女が酒に酔っていると勘違いしていた、祭司のエリでしたが、ハンナの訴えを聞いて、祝福を語りました。17節「安心して帰りなさい。イスラエルの神が、あなたの乞い願うことをかなえてくださるように」。この言葉は、イエス様も福音書で語られていた言葉でした。苦しく悲しい境遇にある人の立場が、回復し、信仰のもとへ立ち返っていくとき、「安心して行きなさい」と、送り出してくださるときの言葉です。この「安心して帰りなさい」という言葉、レキー、レシャロームと発音しますが、シャローム、お聞きになったことがあると思います。平安です。直訳すればこの言葉、「平安のほうに身をむけて歩んでいきなさい」という意味になります。これが、執り成す人の言葉です。
教会は、苦しい胸のうち、かなえてほしい事柄を、注ぎだすところです。わたくしも、すでに何人もの方の胸中をお聞きすることになりました。このとき、できることと言えば、ただじっとお聞きして、祈ることにつきます。ただし、これがわたしは神様が求めておられる最上の事柄だと思います。ただのお悩み相談所ではなく、神様の前に共に語られることを聞き、御心がなされることを祈る。この、神様のまえに真実を語り、それが確かに聞かれた、ということが、わたしたちが「平和に向かって歩むため」に必要不可欠でると、ここでは、ハンナの嘆きと、エリのとりなしによって示していると思います。さらに付け加えるならば、いまやイエス・キリストの名のゆえに、祭司職はすべての信仰者に委ねられました。ですから、キリストの教会では、だれでも神の御前に嘆き悲しみをともに語り、ともに聞き、そして祈って執り成しを願うことができます。礼拝がまずそのことが果たされる最上の場所であり、また、この祈祷会も、祈ってとりなしを願うという点では同等の務めを委ねられていると言えます。
さきほど、「なぜハンナの胎を閉ざすような、無体なことをなさるのか、神様は?」という問いを試みにもってみたわけですが、このゆえに、「神の名」という名前の男子が誕生いたしました。その名はサムエル、神の名です。そして、彼は、ハンナの祈りのとおりに、神様に捧げられることとなりました。
ここでも、かわいそうにハンナ、せっかく男の子をさずかったのに、神様に捧げるという誓いがなければ、手元で育てて可愛がることが出来たのではないかと考えることもできます。たしかにそうかもしれません。神様に捧げるということは、もう祭司としての一生が決まっているようなもので、生まれてすぐ親元を離れ、神殿で暮らすことになります。
しかしハンナは、嘆き悲しみのなかで祈りながら、命の誕生というものは、神様からの授かりものだという真理を、諭されたということが言えると思います。もちろん、人の一生は、その人本人が歩む道を選び取るわけですが、これ以上に、人の一生をすっぽりと初めから終わりまで包み込んでいるものは、命の与えぬしである神様です。もともといただいた命を、またお返しするようにしてささげていく。最終的には、この命、神様に捧げられるということを、心の大事なところにとどめおきながら、神様の御心にかなう範囲で、大いにやりたいこと、やるべきことをする自由が、わたしたちには与えられているのではないかと思います。そういった意味では、サムエルは生まれたと同時に、生きることが即、神様に仕えることだということを、その名のとおり「神の名」において示されたということができると思います。苦しく、嘆き悲しんでいたところから、求める祈りをささげていたハンナでした。彼女は、祭司エリのとりなしによって、祈りが聞かれるとの祝福を与えられ、そのとおりになりました。そして、その喜びによって、ささげる者と変えられました。祈りのなかで、求める者から捧げる者へと大きな信仰の変化を遂げたハンナには、神様の深い御心と働きかけがあったと言えるでしょう。ここに集うわたしたちも、日々、祈りのなかで新しく変えられています。「『わたしは、この子を主にゆだねます。この子は生涯、主にゆだねられた者です』、彼らはそこで主を礼拝した。」という言葉で第一章、締めくくられていました。わたしたちも、祈りつつ、自らの生涯、主に委ねるようにして、平和、シャロームに向かって常に歩む者でありたいと願うものです。今日はここまでにいたします。
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