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1月1日元旦礼拝

「  命名『主は我が救い』 」

 主の紀元、2017年から2018年へと移り行くこの二日間、わたしたちは、一年の終わりを礼拝でしめくくり、一年のはじまりを礼拝で迎える恵みを与えられました。岐阜は神社の多いところですから、きっとあちらこちらで初詣がされていることでしょう。わたしたちにとっても初詣です。主の祈りの家に招かれて、まことの神に礼拝をささげることから一年を始めるとは、大きな恵みであります。

 今日、与えられたみ言葉のなかで、とくに中心に置きたいところは、21節です。「八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である」。

 クリスマスが、1225日にお祝いするものとして、教会の暦で定められてから、この八日目にあたる日は、グレゴリオ暦の11日、元旦ということになりました。ですから、今日は、赤ん坊のイエス様が、イエスと名付けられた日をお祝いする祭日でもあります。

この生まれて八日目の名前が付けられる日、ユダヤの慣習では、割礼を施すことになっていました。この点、イエス様は救い主としてお生まれになったといえ、ユダヤの慣習のもとにお生まれになったことを意味しています。昨日の礼拝においては、ガラテヤの信徒への手紙が示されました。覚えておいででしょうか、4節に「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」とありました。ルカとともに伝道をしたパウロは、ルカ自身から、イエス様の誕生の次第をすでに聞いていたのかもしれません。律法のなかでも最たるもの、すなわち体を傷つけることで、神のものとの証拠にする、割礼をイエス様はお受けになったのでした。

生まれて八日目にこの儀式をするわけですが、赤子のうちに済ませてしまう点が、すでに、この律法が形だけのものになっていたことを物語ります。体の一部を傷つけることで、神のものとされている見える証拠を得る律法。しかし、大人になってからでは痛いので、赤ちゃんのうちに済ませてしまえば、本人もわからない。いわゆる「通過儀礼」のような要素だけがのこり、いったい、神様のものとされるということの本質を、心から確信するにはほど遠い、儀式になっていました。ましてや、罪なき神の御子としてお生まれになったイエス様にとって、本来、これは、まったく必要のない儀式だったのです。

ところが、神様は、八日目にイエス様が割礼をお受けになることを、そのままにしておかれた。それは、わたしたちが負わなければならない、律法の不自由さを、この割礼においても、同じように負ってくださったということになります。

そのことで、もうわたしたちには、このような見える証拠で神のものとされていることに頼る信仰は、必要のないものとしてくださったと言えます。のちにキリストが復活されたあと、この割礼は、キリストの教会においては、無用のものとして廃止されていくことになります。

 さて、こうして割礼をほどこされた赤ちゃんは、「イエス」と名付けられました。これはヘブライ語、ヤーシャー、救い出すという動詞が、名詞になったもの。「主はわたしの救い」という意味です。わたしたちにとっては、イエスという御名前は、かけがえのないものですが、イスラエルでは、良く知られた名前です。ある考古学者の研究によれば、当時、西暦一世紀ころのイスラエルで、「イエス」という名前は、だいたい6位くらいの人気だったということです。これは、発掘された碑文や土器に刻まれている名前の数から、調べることができるそうです。ちなみに順番は、一位がシモン、順に、ヨセフ、ユダ、ヨハナン、エリエゼルときて、イエス。

 昨年、2017年の男の子のなまえのトレンドを調べてみました。6位は、ソウスケくんだそうです。まあ、たしかにとても珍しい名前ではない。当時、イエスという名前も、どこかで聞くような、さして珍しいものではなかったわけです。すなわち、生まれたときのイエス様は、一般の人のなかにとけこんでしまうほどに、ぱっとみただけではわからない、普通のユダヤの家庭に生まれ、ユダヤの慣習にしたがった男の子。正真正銘、わたしたち人間と同じところまでくだってきてくださった方と言えます。

 しかしながら、わたしたちは、聖書に記された真実をもとに、「イエス」と名付けられた次第をしるとき、その非凡さを知ることができます。というのも、「イエス」、主はわが救い、と名付けなさいと定めたのは、ほかでもない、み使いを贈り給うた、主なる神様であったということです。マリアは、母として、その尋常ではない生まれ方をしっていました。天使から、この男の子は、救い主になると告げられていた。もしかしたら、気分高揚して、この男の子に、世界で一つしかないような、キラキラするような名前をつけることもできたのです。しかし、マリアは、ただ、神が伝えたもうた、シンプルな御名前にして、しかし、この男の子の歩みを示す、「主はわが救い」という名前を、お言葉どおりにつけたのでした。

 こうして普通のユダヤの家庭にお生まれになったこのお方は、普通の男の子の名前をつけられ、慣習にもとづいて、律法のもとに生まれ、わたしたちが、もう律法に頼って生きなくてもいいように、その身に形にこだわる律法を負ってくださいました。そうして普通の男の子の名前をつけられ、「主はわが救い」イエスと呼ばれることとなります。

わたしたちにはいまや、こうしてイエスとその御名前を口にしただけで、「主はわが救い」と、救いの証しを、イエス・キリストとの関係において、与えられることとなりました。しかし、世の中は、救いの確信を得たいがために、どうにかして、目に見えるなにかに、救われた証しをさがそうとすることがあります。たぶん、初詣にお出かけの方々は、いろいろと神様の証しということになった何かを、値を払って買い取り、家に持ち帰るのでしょう。あるいは、体についた「幸福」を落としてしまわないように、初詣の後は、一目散に家に帰る人もいるようです。

いろいろと、幸せを得るために、なにか目に見える証しに頼ろうと世の中にあって、しかし、肝心かなめの、わたしたちの罪からの救いは、どこで果たされるのでしょうか。

わたしたちがいま初詣しているまことの神は、しっかりとわたしたちの罪の問題を捉え、そのことに真剣に答えてくださるお方です。幼子のとき、律法の不自由さのもとに生まれ、わたしたちが目に見えるところに頼ろうとするところを、その必要は、もうないと。「主はわが救い」と名付けられた、この人を見なさい、とわたしたちにかけがえのない証しをくださいました。

昨年、クリスマスの前に、イエズス会司祭、ケビン・オブライエン氏の発言が注目されました。北米では、いま「メリー・クリスマス」とあいさつするか、「ハッピーホリデー」とあいさつするかが、深刻な社会問題となっているそうです。いわく保守的なクリスチャンは、「ハッピーホリデー」とあいさつする人たちは、クリスチャンではない。他の宗教を信じている、けしからん。ということだそうです。

この社会問題にたいして、オブライエン司祭は、こう語りました。「イエス・キリストは、メリー・クリスマスとあいさつしようが、ハッピーホリデーとあいさつしようが、まったく気になさらないでしょう。まるでリトマス試験紙のような、この風習をやめるべきです。それよりも、神の国の到来をのぞむ、イエス・キリストは、日々の生活のなかで、イエス・キリスト、が実際に、人となってしてくださったこと、語ってくださったこと、人として生きた姿を知ることを望んでおられます。それは隣人を受け入れ、隣人とともに生き、隣人をもてなす生き方でしょう」、

どうぞ、この初詣の日、そしてイエス様が御名前をつけられた日に、みなさまの心にこそ、割礼がほどこされ、新しい思いで、人として歩んでくださったイエス様とともに、一年をはじめる新しい日となりますように。今日からはじまるこの一年、みなさまのうえにイエス様とともに生きる、豊かな祝福がありますように。父、子、聖霊の御名前によって。アーメン。

祈りをいたします。

いかにも普通のユダヤの家族に生まれた男の子として、律法の下に生まれてくださった方が、イエス、「主はわが救い」との御名前を、あなたによって名付けられることとなりました。イエス・キリストの名づけの日を、こうしてお祝いすることができ、感謝をいたします。あなたは愛する、まったく正しき御子を、なんと律法の不自由のもとにすら、おいてくださり、それを負ってくださることで、わたしたちの重荷を軽くしてくださいました。ただ、この神の愛が人となったおかたの、語った言葉、なさったこと、歩んだ道が、わたしたちにとっての、完成された律法となります。新年の最初に日に、こうして、イエス・キリストへの思いをあらためることができ、幸いです。どうぞ、この一年も、「主はわが救い」、イエスと名付けられたキリストこそ、唯一の主と仰ぐ、歩みとなりますように。主の御名前によって祈ります。

 

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