1月21日説教のポイント
「湖畔でのまなざしは」
聖書 マルコによる福音書第1章14-20節
伝道師 三輪恵愛
①「神の国は近づいた」完了形が表す神の国の大接近、これが福音
イエス様の幼少期を書き残すことはせず、「公生涯」と言われる最後の約3年の歩みのみに集中するマルコによる福音書。イエス様が「福音を宣べ伝える」においては、生涯のはじまりは「これで充分」という意義が感じられます。福音の始まりは極めて端的な言葉から始まりました。「神の国は近づいた」と完了形で言い表される言葉の驚きがあります。神様の側からすれば、イエス様が地上に来られたことで、もう確定してしまった事実。「ヨハネが逮捕」されるような悪の世であっても、神様のご支配が及ぶ神の国が、地上に突入し、近づききったのでした。「救い主イエス・キリストが地上に来られた」、これが福音の始まりです。
②神の国の福音、イエス・キリストがまずなさったことは「弟子を召す」
イエス様はガリラヤの湖畔から、四人に「ついてきなさい」と声をかけますが、四人はなにも言わずについていきます。ここでまたわたしたちは驚きます。「なぜ、彼らはついていけたのだ!?本当になにも言わずについていったのか、怖くなかったのだろうか」いろいろと思いめぐらします。しかしここではまず、「それほどにイエス・キリストの招きの声、すなわち福音は、抗うことのできない恵みと召し出す力を持っているのだ」、と承知しておきたいと思います。福音のために、主は日常から弟子を選び、招かれるお方なのです。
③弟子たちの姿が素晴らしいのか?否、召された人はすべて素晴らしい!
それにしてもなぜ、彼らはすぐについて行くことができたのか。彼らが人間らしさを表に出すのは、弟子としてイエス様のあとを歩み始めてからです。そして十字架の道行きでは、ついに恐れをなして逃げ出しました。弟子たちが素晴らしいわけではなく、そのような弟子たちであってもまなざしをおくり、福音のために召し出すのがイエス・キリストなのです。十字架の恐れのまえに逃げ出した弟子たちでしたが、イエス様が再びガリラヤで会おうと言われました(マルコ16:6,7)。ガリラヤの湖畔、彼ら弟子たちの慣れ親しんだ日常です。ここが、彼ら弟子たちにとっての、選ばれた後に生活しながら福音を宣べ伝える日常だったのです。湖畔のまなざしは、わたしたちの日常での在り方に向けられていました。神様のまなざしにとって大切なのは、神の国を伝えること。今日も、イエス様はおひとりおひとりの豊かな賜物にまなざしを向け、ご自身の福音のために、豊かに用いようとされています。
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