12月10日説教のポイント(郡上八幡伝道所)
「実りを与えてください」 聖書 詩編第85篇 伝道師 三輪恵愛
寒さが日増しに募る今日この頃ですが、この時期に嬉しいこともあります。
岐阜教会の中庭に、バラが咲きました。それから、山茶花も美しい花を咲かせました。寒い冬にも関わらず、明るい赤の色をつけて、冬を彩ってくれています。クリスマスの時期に、こうして赤い色の花が咲くことと、アドヴェントの時期に典礼色、礼拝に用いる色に、赤が含まれること、関係があるのではないかと思います。わたしが長く過ごした北海道では、ナナカマドの赤い実が冬に実を結びます。冬の間、町をいろどり、野鳥を養います。
クリスマスに込められた大切な意味の一つに、「時が満ちる」というものがあります。待ち望んでいた時が満ちて、救い主がお生まれになりました。時が満ちれば花が咲き、また実を結ぶようにして、神様の約束が成就したときをお祝いする。寒い冬にクリスマスを迎える国では、その時に、花を咲かせ、実を結ぶ植物は、クリスマスの意味を象徴するものと言えます。
今日与えられたみ言葉のなかにも、実を結ぶ植物に例えて、神様の御業が示されていました。11節から13節までのところです。「慈しみとまことは出会い、正義と平和は口づけし、まことは地から萌えいで、正義は天から注がれます。主は必ず良いものをお与えになり、わたしたちの地は実りをもたらします」。
この詩のなかに歌われているように、「約束の成就」としてのクリスマスは、わたしたちに良い実りをもたらしてくださったものとも言えます。旧約の民の歴史は、救い主の待望を抱きながら、神への信頼を失わなかった。この姿が、いま聖書を読むわたしたちを励ましてくれます。
ところで、この良い実りを結ぶときでもあるクリスマスは、こうして毎年、めぐってきます。イエス・キリストのお生まれは、一回限りのことでしたが、わたしたちのクリスマスのお祝いは、毎年行われ、きっとイエス様が、また地上に来られる日まで、ずっと続くことになるのでしょう。一回限りのイエス様のお誕生を、繰り返しわたしたちはお祝いしながら、良い実りを願っていくものです。ここに、わたしたちの信仰が生きたものであるという真実が語られているように思えるのです。
もともと、主なる神、ヤハウェの神を誉め讃えるために、古くより歌い継がれてきた詩編です。旧約の民は、救い主キリストが来られるまで、神の救いを歌にのせて祈り願っていました。それぞれの詩編には、成立した背景と言われるものがあります。この詩編85篇は、バビロニア捕囚のあと、神殿再建の頃のものだと言われます。2節を御覧ください。「主よ、あなたは御自分の地をお望みになり、ヤコブの捕らわれ人を連れ帰ってくださいました」。遠くバビロニアより解放されて、祖国の地を踏んだときの喜びの言葉と言われます。また、間をあけての9節「わたしは神が宣言なさるのを聞きます。主は平和を宣言されます。御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に、彼らが愚かなふるまいに戻らないように。」この、「神の宣言」と言われる言葉や、民が愚かなふるまいに戻らないように、と言われることから、再建した第二神殿で、礼拝をしながら、主に悔い改めたときの姿が遺されていると言われます。このように、詩編85篇は、もともとは、罪からの解放を喜び、悔い改め、二度と神に背くまいと祈り願った歌でした。
ところで、そうなると、なぜ5節から8節は、救いを願う言葉が歌われているのか、という問いが与えられることになります。1節から4節、また9節から14節は救われ、悔い改め、新しい歩みへと導かれたように思えるなかで、間に挟まれている歌は、どうも、救われる前のことが歌われているようなのです。これはなにか、不自然な作りになっているのか、それとも、翻訳の仕方に問題があるのでしょうか。そうではないのです。むしろ、救われたあとにも、救いを求めることがあり、また、主の救いは繰り返し実を結んでいく。これが、信仰的な歩みの、真実の姿であると、この詩編85篇は、全体で示しているものだということができるのです。
詩編は、かつては古代のイスラエルの信仰の歌として歌い継がれてきたものでした。それがやがて、キリストの教会の礼拝で、主を誉め讃える歌として整えられていきます。こういった点では、古代イスラエルの信仰や初代のキリストの教会の信仰の道備えのあとに、わたしたちは歩んでいるということができます。
詩編が、古い伝承の歌から、今の形に整えられたのは、1世紀末の頃だと言われます。すなわち、イエス・キリストが十字架にかかり御復活をはたされ、教会が建てられたころ。それまで、民族的な伝承の誉め歌であったものが、イエス・キリストを賛美する歌へと整えられていきました。とくに11節の「いつくしみとまこと」という言葉は、ヨハネによる福音書に通じるものと考えられたようです。さきほど、わたしたちの信仰を生きているといいました。なるほど、愛とも訳される、「いつくしみ」も、「まこと」も、一回限り与えられれば済むものではない。現在的に進行していくものです。神様が過去一回だけ愛してくださったように思えても、今はどうなのか。愛は生きて続いていくものです。神の「まこと」も、一回限り示されたように思える「まこと」も、それは、いつまでも追い求めていくものではないでしょうか。
こうして礼拝のなかで歌われていくなかで、教会のなかでは、信仰の歩みというものの現実が、この詩編にも歌いこまれていきました。すなわち、一度、信仰を与えられたものも、その歩みのなかで、「いつくしみとまこと」が揺らぐようなときがあり、再び救いの叫びをあげるときがあり、そうして、再び、良い実りの時が与えられる、そういった歩みであるということです。時が巡り来れば、このクリスマスの時期に、赤い花、赤い実が美しく彩るように、信仰の歩みは、その時、その時にあって実りを繰り返していくものだということ。
クリスマスの時期は、伝道における大きなチャンスと言われます。この時期、見た目にも教会は美しく彩りますし、伝道的なメッセージが語られ、クリスマス的な讃美歌が歌われますから、教会が魅力的に見えるときです。この時がきっかけとなって教会に足を運ぶようになった方も多いでしょう。それは、一つの、実りの時なのかもしれません。しかしながら、いま、このようにして生き生きとした信仰の歩みを続けているわたしたちは、信仰の歩みの現実を知っています。いつも教会は、クリスマスのような華やかさはないわけです。むしろ、み言葉に耳を傾けながら、日々の現実的な生活と行ったり来たりすることの繰り返し。ときには、詩編85篇のなかほどに歌われるように、一度、救われたはずなのに、「わたしたちの苦悩を静めてください、わたしたちをお救いください」と、悲痛な祈りをささげる日も必ずあるのです。クリスマスの華やかさが、もしかしたら仇となるときは、このようなときに教会にとどまることができず、人生の苦しみのときに、教会を離れていく人もいるということです。信仰の歩みの実りは、一時的なものではなく、継続して、もっとよい実りを待ち望みながら、ときには、救いを叫ぶような祈りをささげることもある。それこそ、信仰の現実的な歩みであると。バビロン捕囚からやっと帰ってきた古代イスラエルの詩人が歌い、初代教会の厳しい試練を耐え抜いた聖徒らの詩編の歌声は、神ご自身が育てたもう、信仰の実りの真実を今も歌い続けています。
そうであればこそ、わたしたちは、このクリスマスの時に、ふたたび、神ご自身のみ言葉が人となって、わたしたちに与えられたときの喜びを繰り返し祝うことが大切なのでありましょう。
わたしが育った教会では、何年か前のクリスマスに、嬉しいことがありました。年配のご婦人が、クリスマスのチラシを見て礼拝に足を運んでくださったのです。もう何十年も信仰から遠ざかっていたけれど、クリスマスのときを思い出して、来ましたと。その人にとっては、再び良い実りがもたらされる時となったのでしょう。その年のクリスマスが大きなきっかけとなって、再び教会に戻ってこられるようになりました。神様がなさる御業は、わたしたちには想像もつきません。しかし、そのお方にとっての相応しい実りの時が、再びそうしてめぐってきたのでしょう。
良い実が結ばれるためには、土は良く耕されなければなりません。神は、人が苦しく叫びたくなるようなときに、人の心を耕して、霊的な実が結ばれる時を待っておられたとも言えます。そうです、なによりも、良い実りを待っておられるのは、神様ご自身です。イスラエルも苦難の時を耐え忍んだが、まことの救い主が来られた。それはエッサイの根より、バラが咲き出でるように。クリスマスには、信仰の芽が出るといいます。実りを与えてくださるためならば、かつての試練も、また神が与えてくださった大きなきっかけ。クリスマスにあって、わたくしたち自身がかつての歩みを顧みながら、いっそう豊かな「実を結ばせてください」と、心からの期待をこめてますます祈るときでもあります。それと同時に、多くの新しい方がたに、はじめての良い実が結びますようにと、期待しつつ、クリスマスのお誘いをしていきたいと願うものです。どうかお誘いの声をかけられる皆様に、聖霊の御励ましがありますように。父、子、聖霊の御名前によって。アーメン。
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