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1月24日祈祷会 サムエル記上第10章9-24節

「 霊はときに激しく、ときに優しく降る 」

10:24 サムエルは民全体に言った。「見るがいい、主が選ばれたこの人を。民のうちで彼に及ぶ者はいない。」民は全員、喜び叫んで言った。「王様万歳。」

こうして語られるサウル王の即位です。神の民、イスラエルは、初めて王様を戴くことになりました。アブラハムのような族長でもなく、モーセやヨシュアのような指導者、預言者でもなく、ギデオンのような士師でもありません。ヘブライ語で「メレク」と呼ばれる王様です。わたしたちは第8章で、長老たちが王を求めたとき、サムエルの目にはそれが悪と映り、神様も、王様を持つということはどういう苦しみが与えられるか、予めお語りになりました。それでも構わない!となかば強引に願う民の請願を受けて、与えられた王様です。いうなれば、「神様、サムエル」と「民」のあいだには、王様を巡っての緊張が走っていたわけです。ところが、この24節はいかがでしょうか。サムエルは、選ばれたサウルを「主が選ばれた」と宣言し、民は全員、喜び叫んでいます。ここには、すでに緊張はありません。サムエルを仲立ちとして、神様と民全員のあいだに、選ばれた新しい王様を一つになって喜ぶ姿を見ます。わたしはここで、いろいろな業を通して、選ばれた民を救いに導くお方である神様が、まことに寛容と忍耐と思慮に満ちたお方であることを改めて感じました。民に対して、「王様などけしからん、だまって、わたしが立てる士師に聞いておれ」とは言わないのです。民が新しい信仰の在り方を示したとき、また神様も新しい仕方を準備して、次のステップに導いているかのように思えます。やはり、神様はわたしたちの新しい求めと信仰の在り方を認めてくださって、養い導く、親のようなお方であると思いました。

 さて、先週見たサウルの選びには、なかなか面白い周辺の出来事が綴られてきました。ロバ探しから始まったサウルの選びでしたが、時が進むにつれて、事態は具体的になっていきます。今日、ご一緒にお読みしたところは、サムエルが、すでにサウルに油を注いだところからにしました。第10章はちょっと長いので、前半を割愛させていただきました。1節だけ、読んでおきます。サムエルは油の壺を取り、サウルの頭に油を注ぎ、彼に口づけして、言った。「主があなたに油を注ぎ、御自分の嗣業の民の指導者とされたのです

これまでもたびたびふれてきましたが、この「油を注ぐ」という言葉が旧約聖書に出て来たら、一つのキーワードのように反応していただければ嬉しく思います。旧約における「油を注ぐ」という行為は、神様がとくべつに人を召して指導的な立場に置いたという目に見えるしるしです。出エジプトではアロンやその家系の祭司たちが油を注がれました。ダビデも油を注がれます。「油を注がれた人:マーシアッハー」という言葉から、「メシア」救い主として神様に選ばれた人、という言葉につながっていきました。ただしお断りしておかなければならないのは、ここでの「油を注ぐ」は、「ヤーザック、シャーメン」という言葉で、マーシャーとは異なります。その違いについては、のちの機会に譲ることにします。ここでは、ひとまず油を注がれて、サウルが選ばれたことだけ、覚えておきたいと思います。

選ばれた後、すぐに王様への就任式か、と言いますと、そうではないようです。今日は飛ばしましたが2-8節のところでは、サムエルが、王に選ばれるまでサウルの周辺で起こることを予め語ります。そして、今日読み始めたところは、サムエルが言ったとおりのことが起きているところでした。ここで9-10節に注目しておきたいと思います。読みます。10:9 サウルがサムエルと別れて帰途についたとき、神はサウルの心を新たにされた。以上のしるしはすべてその日に起こった。10:10 ギブアに入ると、預言者の一団が彼を迎え、神の霊が彼に激しく降り、サウルは彼らのただ中で預言する状態になった。

まず10節の「心を新たにされた」という印象深い言葉です。もともとは「神様がサウルの心をひっくり返した」という意味ですが、転じて「新しくした」と訳されるところです。わたしたちの内面が変わる瞬間は、やはりわたしたちがもともと持っている概念や経験だけでは、なかなか新しくならないことを思い起こします。新しくされるためには、外からの働きかけが必要です。わたしたちは改革派の教理を一つの道しるべにします。そうして、神様がたえず人を聖霊において新しくしてくださる、すなわち聖なるものへと「リフォーメーション:改革」してくださる恵みを喜びます。ですから、サムエルに選ばれ油を注がれたサウルの心が神様によって新しくされる様子をみて、「いいな、素晴らしいな。わたしの身にも起きてほしい」と願っていただければ幸いです。

それにしても、ここでの神様の霊の下りの激しさには驚きます。「預言する状態」、ナーバーと言う言葉で、ここからネビイーム、すなわち預言者という言葉になっていきました。もともとの意味は、「宗教的に恍惚状態になって、新しく聞いた言葉を語り出す。」ということです。これは、なんとも、わたしたちの生活からはかけ離れた情景かもしれません。「神がかり」などという言葉を聞きます。日本では、御神託を得た巫女さんが、神を振り乱して、「神のおおせじゃー」と叫ぶ情景を思い浮かべるかもしれません。すこし、こわいですね。サウルのまわりの人たちもびっくりしています。「あの、父親のいいつけに素直にしたがっていた息子のサウルが、預言者みたいになってしまったぞ!」。ことわざにまでなってしまいました。

さきほど、聖霊が新しくしてくださる生活を、わたしたちは重んじると言いました。とはいいましても、その働きかけもまた、人それぞれに、ふさわしい仕方で働きかけてくださるのが柔和な鳩のような聖霊の本質だと思います。まわりが預言の状態になってしまったら、その準備が整っていない人は焦ってしまうかもしれません。だれしもサウルになる必要はありませんで、その人には、その人の新しくされる道があると、覚えていただければよろしいかと思います。

最後、いよいよ王の選びと即位のところにさしかってきます。このときサウルは、興味深いことに、おじさんに王位のことを内緒にしています。これは、いろいろと考えさせられるところです。サウルが激しく霊を注がれながらも、そこから覚めると冷静になっているとも受け取れますし、王位につくことを躊躇して口にすることが出来なかったのかもしれません。神様の霊的な働きかけを感じて、「やるぞ!」と心が燃え上がりながら、ふっと我に返ると、他の人には伏せてしまいたくなる姿にも見えます。そうすると、王への選びのところで、22節で荷物の間に隠れていたことともつながるようにも思えます。

ここはいろいろと自由に思いめぐらすことが出来るところだと思います。サウルが王になることへの重要性をわきまえたからこその、慎重さを読み取っても間違いでないでしょうし、日常生活から選ばれて王になることへの戸惑いと考えても、間違いだとは言えないと思います。いずれにしても、こうして、油を注いで選び出し、霊によって新しくした人を、すぐには務めに出さず、じっくりと自覚を与える神様の導きの丁寧さが示されていると言えると思います。サウルに無理なく、また王をいただく民にとっても無理なく、御業を進める神様の御業の丁寧さです。

わたしどもにも言えることは、神様に選ばれて、信仰者になったあと、「やるぞ!」と激しく霊に燃えることもあれば、ふっと我に返って、慎重になったり、ときには臆病になってしまったり、他の人には、燃え上がる心を内緒にしたり、そうして、いつしか、信仰が養われていくという歩みがあったことは共感できるのではないでしょうか。

いまわたしたちは父、子、聖霊の三つにおられ一つであられる神様と、聖霊によって親しき交わりに与っております。改革派の聖霊理解の参考として、一つご紹介しておきたいと思います。宗教改革者カルヴァンは、聖霊の働きの第一は信仰を与えることだと言いました。その根拠として多くの聖書の引用箇所を用いていますが、とくにわかりやすいところを選んでみました。どうぞ、お開きになっても、お聞きになってくださっても結構です。ヨハネの手紙一第324節と、第413節、つづけてお読みします。神の掟を守る人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまっています。神がわたしたちの内にとどまってくださることは、神が与えてくださった“霊”によって分かります。神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。ここから言える大切なことは、内面的に感じるものである信仰とは、聖霊によって与えられている、ということだと思います。外面上になにやら目覚ましいものがあったとしても、それが信仰による神様との結びつきの証明になるかどうかはわかりません。それぞれの内面的な問題ですし、たとえ目覚ましいなにかがなくても、しっかり神様が内にとどまっていることが、確かならば、まずその与えられた信仰に感謝できるということだと思います。神様が内にとどまっているのであれば、無理なく、ふさわしい時に、きっと御心にかなう御業に用いられることになるのではないでしょうか。そのときには、サウルが荷物の間に隠れていたところから出て来たように、ぜひ務めの場に出てきていただいて、与えられた務めに与っていただければと思います。とくにわたしたちは、総会を控えていますが、聖霊の御導きのもと、ふさわしい仕方で長老執事が選ばれ、ともに神様の御業を喜ぶことができればと、この数日、とくに心より祈っています。今日は、ここまでにいたします。

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