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1月3日祈祷会 サムエル記上第6章

「 目に見えない主なる神様への信頼 」

先のペリシテとの戦いに敗れ、イスラエルは主の契約の箱を奪われることとなりました。この出来事を、わたしたちは前回、主なる神様ご自身が、なにか大事な目的があって、ペリシテに奪われるがままにされたと、受け取るように読みました。すなわち、主の契約の箱を中心とした礼拝が、祭司によって汚されていた、そのことをただすことが目的だったのです。では、契約の箱を奪った側であるペリシテに対しては、どういった意味、目的があったのか。それが、この第6章で明らかにされていきます。

理解を深めるためには、第5章からよむべきところですが、ボリュームが多いので、第6章のみにしました。さきに第5章に記されている、ペリシテの領内でなにが起きたのか、要点を抑えながら、第6章に記されることの顛末を読んでいきたいと思います。

5章で起きていることの要点をあげるとすれば、3つに絞られます。第5章の2から4節と6節を、どうぞお聞きになってください。「ペリシテ人は神の箱を取り、ダゴンの神殿に運び入れ、ダゴンのそばに置いた。翌朝、アシュドドの人々が早く起きてみると、主の箱の前の地面にダゴンがうつ伏せに倒れていた。人々はダゴンを持ち上げ、元の場所に据えた。その翌朝、早く起きてみると、ダゴンはまたも主の箱の前の地面にうつ伏せに倒れていた。しかもダゴンの頭と両手は切り取られて敷居のところにあり、胴体だけが残されていた。(5節略)主の御手はアシュドドの人々の上に重くのしかかり、災害をもたらした。主はアシュドドとその周辺の人々を打って、はれ物を生じさせられた。」

 いま、お読みしたなかに、主の契約の箱がペリシテに奪われたことで起こされた出来事の要点、3つが含まれています。

 まず一つ目は、ダゴンという偶像が破壊されていたことです。このダゴンという偶像は、海洋民族があがめていた想像上の生き物の姿をしたものです。胴体がさかな、頭と両手が人間という、異形の神です。このダゴンの偶像が、うつ伏せに倒れる、すなわち主の契約の箱を拝むようなかたちで倒れていたこと、その翌朝には、ダゴンの頭と両手が切り取られ、胴体、つまり魚の部分だけが残されていました。これは、想像上の生き物を拝むなどという愚かな行為への痛烈な皮肉です。

 二つ目は、6節の「災害をもたらした」の、「災害」です。これはなんの災害なのか、この訳では分かりにくいところがあります。じつは、新共同訳が底本にしているヘブライ語聖書には欠けているのですが、紀元前1世紀ころにヘブライ語聖書からギリシャ語に訳された聖書には遺されている言葉で、その欠けを補うことができます。どうもこの災害は、ねずみによる穀物を食い荒らされる害のことだと言われています。この当時、ねずみによって穀物を食い荒らされることは深刻な食糧難を引き起こしました。ねずみの害であることを裏付けるのが、今日、読んだところで、ペリシテの祭司が「金の腫物の模型とネズミの模型を箱に一緒に添えて、送り返しなさい」と助言しているところからもわかります。

 さて、ねずみの災害と偶像礼拝の接点はなにかといいますと、これもダゴンが関わります。ダゴンは、豊穣の神様としてもあがめられていました。この像を拝んでいれば、豊作が続いて食料には困らないと。いったところが、ねずみに食い荒らされることも防げないというあてにならない偶像礼拝の現実でした。

三つめは、「腫物」です。この部分も、ヘブライ語本文が少し壊れていまして、ギリシャ語版の旧約聖書によれば、これは、人間の隠しどころ、いわゆる「下腹部」にできた腫物だと言われます。そのように読めるもう一つの手がかりとしては、詩編第7866節が挙げられます。詩編78篇は、ダビデが王になるまでのイスラエルの歴史を、神の御業を讃えながら要約している歌です。ここで、神の契約の箱が奪われたあとに、なにが起こったか歌われる部分が66節になります。そこでもやはり「敵の下腹部を打った」という表現があり、ペリシテでの出来事に合致します。この、「下腹部に腫物が出来た」というのも、ペリシテの偶像崇拝的な在り方への皮肉となります。というのも、ペリシテは、イスラエルとの戦いで、自分たちの雄々しさ、男らしさを強調し、それに頼っていました。これは、人間の持てる力、自分自身の力に頼る姿の象徴として読むことができます。いわば自分の力を拝む偶像礼拝です。どんなに屈強で力のある人も、隠しどころをはじめとして、身体が腫れ上がるようなことがあれば、力が出ないと、人間が本来、どんなに鍛えても、病に弱いという現実を突き付けています。

 これら3つの出来事が第5章でおきたため、ペリシテでは、「神の契約の箱」は、いろんなところをたらいまわしにされ、ペリシテ全体が恐慌状態に陥ることになりました。なんとも、偶像に頼って己を誇ることの、もろいことかと思わせられます。しかし、彼らは、そこで大事なことに気づいていきます。「これはイスラエルの箱のせい」、つまり「主の契約の箱」を奪ったから起きてしまったのだ、と悟っているのです。そうして、今日の第6章で、ペリシテの祭司たちが語った言葉も合わせて紐解いてみます。すると、4節や8節に「賠償の献げ物」とあるように、彼らは、主の契約の箱を奪ったことは、賠償しなければならない行為、すなわち罪であると悟るのでした。この「賠償:アーシャーム」という言葉は、罪過、つまり罪と訳すこともできる言葉です。

 ここまでのところ、主の契約の箱を奪ったペリシテ領内でおきた三つの出来事が、どれも偶像礼拝への痛烈な皮肉と批判、そしてペリシテたちは、主の契約の箱を奪ったことが、イスラエルの神への罪であったことに気づいていくところをみてきました。このあたりが、神様が主の契約の箱が奪われるままにされた、ペリシテにむけての理由となってきます。これは、要点をまとめれば、偶像礼拝に頼って生きようとする異邦人を悔い改めに導こうとしていると、読み取ることができます。

 さて、この罪過に気づいたペリシテの人たちは、祭司が語るとおりに、車を牝牛にひかせて、その上に契約の箱をおき、イスラエルの領内へと帰らせます。祭司たちの言葉に興味深いものがあります。8節、9節です。「主の箱を車に載せ、賠償の献げ物として主に返す金の品物を箱に入れ、傍らに置きなさい。それを送り出し、行くがままにしなさい。

6:9 そして見ていて、それが自分の国に向かう道を、ベト・シェメシュへ上って行くならば、我々に対してこの大きな災難を起こしたのは彼らの神だ。もし、その方向に上って行かなければ、彼らの神の手が我々を打ったのではなく、偶然の災難だったのだということが分かる。」

 神様の摂理の御業に徹底する聖書には珍しく、「偶然」と言う言葉が用いられています。これは、ペリシテの祭司たちが、イスラエルの神の摂理をなんとかして相対化して理解できないか、考えている言葉だと思います。ここにも現代にも通じる、神の摂理の相対化という、思想が見受けられます。どうにかして、彼らは偶然の災難であってほしいという可能性を遺します。しかしながら、結果として、牝牛はイスラエルのほうに向かっていくのでした。ここでもペリシテの人たちの摂理を相対的にとらえようとする思想は批判されています。

 こうして、ペリシテ領内では、主の契約の箱によって、徹底的に、神ならざるものを拝んだり、神の摂理を否定したり、そういった真の神へ身を向けない姿勢が痛烈に批判される出来事が起こされました。十分に、主の契約の箱が奪われた理由が、ここに記されていると思います。

 最後に、第6章の終わりのところに記されている意味を少し見ておきたいと思います。この牝牛が引く車は、ベト・シェメシュに着きます。ここでも、ベト・シェメシュの人たちが打たれて死ぬということが起きていました。察するに、主の契約の箱の中をのぞいた、とありますので、興味本位に取り扱ったことが戒められているように訳されています。ただし、この部分も、ヘブライ語の底本の破損があり、ギリシャ語聖書で補われることの多い部分で、諸説が多いところでもあります。ベト・シェメシュの人たちが打たれた理由については、あまり深く考えることは避けたいと思いました。そこよりも大切なところは、今後、サムエル記上を読み進めるうえで、複線となっていく部分です。

 ベト・シェメシュの人たちは、キルヤト・エアリムの人たちを呼んで、主の契約の箱を、そこに安置させ、アブナダブの息子、エリアザルに守らせることにしました。さて、この箱がキルヤト・エアリムに置かれるのは、いつまでかといいますと、それはサムエル記下第6章、ダビデがようやくペリシテを打ち破り、エルサレムに安置するために、取返しにくるまでのことでした。

ペリシテに奪われた主の契約の箱。簡単には、イスラエルに戻りません。ダビデが取返しにくるのが、ペリシテの脅威から解放されたあとであることを合わせて考えると、それまでイスラエルには、サムエルが語るみ言葉に耳を傾ける信仰を養われる、ある程度の期間が必要であったということもできるでしょう。ペリシテに勝利したとき、勝利者である主とともに再び歩めるようになってから、契約の箱は帰ってきます。イスラエルにとっても、目に見えるものに頼るのではなく、見えざる主への信頼が、御言葉に養われるしかるべき時間が必要であったということが、この第6章の終わりと第7章の1節に込められているように思われます。以上、ペリシテの偶像礼拝への批判を中心に第六章を読んでみました。今日はここまでといたします。

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