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1月7日説教のポイント(郡上八幡伝道所)

「  愛の証しが降ってきた!  」

今日は、2018年のはじめの礼拝です。日本的な言い方をすれば、主が名を置かれた、この祈りの家に、初詣です。「八幡で初詣をする」、という言い方をすれば、まるで日本古来の神様に初詣にいったかのようですが、この八幡山の中腹に立つ、わたしたちの祈りの家は、主なる神様を礼拝するところです。わたしたちが、この新しい年も礼拝をささげるお方は、とおき日にイスラエルの民にむかって、シナイ山のふもとで、ご自身を現された神です。

神様は、そのときこのように言われました。出エジプト記第3319「わたしはあなたの前にすべての善い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ」。わたしたちに賜物を与え、恵みを与え、憐れんでくださる主なる神。このお方が、わたしたちが礼拝をささげる唯一のお方です。創造主なる神、御子なる神、いまもおられる聖霊なる神。三つにおられ、一つである神様です。

 今日は、父、子、聖霊なる神の、三つのお姿のうち、聖霊なる神様のお姿にまなざしを向けながら、み言葉をたずねていきます。

救い主イエス・キリストが、洗礼者ヨハネによって、洗礼を授けられるみ言葉を、与えられました。このとき、ヨハネに任せられていた務めはなんだったでしょうか。4節のとおりです。「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」 

神様に、人が向き合うためには、罪の赦しと悔い改め、これが必要だとヨハネは語っていました。「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」。聖書は、ほかの箇所においても、そのとおりだとかたります。詩編第3419「主は打ち砕かれた心に近くいまし、悔いる霊を救ってくださる」。

 さて、大切なことは、この悔い改めの歩みが、たえず続いていくことです。ひとたび、神様に正しく向き直ったとしても、日々の生活で、神様への向きがまたおかしな方向に向かってしまう。「罪」と訳されるギリシャ語「ハマルティア」のように、的外れな歩みに戻ってしまえば、また悔い改めが求められます。ヨハネが洗礼を授けていたころ、この洗礼は、一回限りのことではありませんでした。罪を自覚するたびに、悔い改め、そのしるしとして、洗礼が与えられる。いわば、水の洗礼は、罪の汚れを洗い落とす儀式とされていました。

 この、ヨルダン川の水で全身を洗い清めることが、今のわたしたちの洗礼に、受け継がれていきました。水の洗礼と、そのあと、わたしたちに与えられた聖霊による洗礼。水を用いる点では、見た目は、ほとんど変わりません。

しかし中身としては、聖霊による洗礼をイエス様が、まず誰よりも先にしてくださったことで、洗礼に、新しい意味が与えられたことになります。罪を犯すたびに、「繰り返し浄められる」のではなく、聖なる霊によって、まっすぐに神のもの、愛する子とされるということ。

 イエス・キリストが聖霊の洗礼を受けてくださったとき、天が裂け、鳩のような聖霊が降り、天から声が聞こえてきました。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。これは、聖霊がイエス・キリストに降ったことで、天の声、すなわち父なる神は、まずイエスと言うお方を、「愛する子」と宣言されたことになります。人の姿をとって、へりくだってくださったイエス様。すべての人が、このイエス様のならうことで、すべての人にむけて愛する子とされる道が開かれました。わたしたちにもできることを、イエス様がまずしてくださったことは、神様の御心に適うことであったということです。イエス様は、この聖霊の洗礼を、御自分のためというよりも、これから洗礼を受けることになる、あとに続くわたしたちが「神様に愛する子」とされるために、してくださったと言えます。

 このように、神様がわたしたちを、聖霊をとおして「愛する子」と言われるほどに、愛を示してくださったことは、まことに恵みに満ちたことです。つぎに考えたいことは、神様が「愛する子」と言ってくださったほどの、「愛」とは、どういったものであるか、ということです。

 この愛は、天が裂けて、そこから聖霊が降りてきたことで、まずイエス・キリストに示されました。「天が裂けて」。主がおられる、いと高きところ、その完全なる天を、裂いてまで、御自分の霊を下ろさねばならなかった。そのような愛を、主は御示しになりました。

この「裂く」という言葉は、マルコによる福音書においては、ほかにもう一か所でしか、用いられていません。マルコはそのことで、福音書における二つの時を、大きなかかわりがあるものとして、伝えようとしています。もう一か所とは、どこか。それは、イエス・キリストが十字架にかかったのち、同じくマルコによる福音書、15:3738、「しかしイエスは大声を出して息を引き取られた。すると神殿の垂れ幕が上から下まで、真っ二つにさけた」。ユダヤの慣習では、たとえばこの裂くという行為。深い悲しみを現すとき、衣を裂くときにも、この言葉を用います。つまり、この天が裂かれるとは、やがてイエス・キリストが息を引き取られるときの、痛みをあらかじめ示すものだったということなのです。

主なる神は、イエス・キリストを「愛する子」として、地上にお遣わしになり、御心に適うものと宣言されました。「わたしの心に適う者」。主の御心が、まことに表されたのはどこだったでしょうか。それは、イエス・キリストがゲッセマネの祈りで「御心がなりますように」と祈られたように、わたしどもを愛しつつ、十字架におかかりになることでした。これが、神の愛、すなわち痛みをともなうほどの、憐れみの業だったのです。すなわち、神様にとっては、「わたしの愛する子」をひとたび失うこと。しかし、神様はそれをいとうことなく、天を裂き、聖霊を下し、イエス・キリストのあとにならうものに、神様はひとしく大切なものを失うほどの愛を示されたのです。

聖書が語る神の愛は、自分の大切なものを失ったとしても、隣人を満たそうとするものです。この神の愛の姿、天を裂いてでも、霊を降ろし、愛を示し、神の子を御心に適うものとしてお遣わしになる。このお方は、御自分の大切なものを失ってでも、愛するものを満たそうとするお方なのです。

日本においては、聖書が語る「神の愛」を、「愛」という日本語一言で言い表しています。しかし、聖書を読み深めるたびに、なんと「愛」という言葉が、いま独り歩きし、あるいは、聖書が示す神の愛を言い表すには、足りないところが多いのではないか、と思わざるをえません。むかしある日本人は、聖書の「愛」と訳される言葉を「御大切」とも訳したといいます。自分よりも、隣の人を大切にすること。言い得て妙だと思います。またあるひとは、憐れみを付け加えて、愛憐ともいいました。完全なる神が、欠けの多き人を満たす。これも、聖書がかたる神の愛をよく補っていると思います。

わたしたちは、わたしたちが大切にしているものを、失うほどに神を、または人を愛することが、できるのでしょうか。わたしたちだけでは、それはとうていかなわないことでしょう。だからこそ、主イエス・キリストがなさった聖霊による洗礼にしたがって、イエス様にならうことで、すでにイエス・キリストが果たしてくださった神への愛に与るよりほかありません。しかし、それでよいと神様はいってくださる。イエス様に宣言されたように、わたしたちにも、「あなたはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」と、主に倣うすべての人に、神は宣言されます。

わたしたちは、「御心に適う者」となるために、あまりにも高い理想を描いて、それが出来ない自分を、責め、主なる神にお詫びすることもあります。しかし、まずわきまえたいことは、神と人をわたしたちは完全に愛することは、本来、できないということ。できないことを見つめすぎると、謙遜を通り越して、無力にさいなまれ、悲しみだけが残ってしまいます。信仰者としての在り方は、人それぞれ。誰とも比べることはできません。それでもわたしたち一人ひとりを、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と、天から宣言してくださる言葉に信頼し、霊とともに、常に新しくされて歩むことを、神様はなにより喜ばれるのではないでしょうか。聖霊の洗礼によって、わたしたちの神と人への愛は、すでに御子イエス・キリストの十字架によって、十全に満たされているのです。

 

ひとたび天を裂いて、降ってきた、神の愛の証しである聖霊が、わたしたちを主イエス・キリストにならう歩みに導いてくださいます。鳩のように柔和で、謙遜を知り、神と人を愛するものとして。新しい年も、すでに頂いた愛の証しである神の霊とともに、ますます神様に愛される神の子として、平安のうちに歩まれる一年でありますように。父、子、聖霊の御名によって、アーメン。祈りをいたします。

 「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」、裂けた天から、あなたの声が響き渡りました。愛の神よ、天を裂くほどに、下したもう聖霊を、イエス・キリストだけではなく、そのあとに続くすべての信仰者に与えてくださり感謝いたします。大切な御独り子を、十字架におつけになることを、あなたはとどめおかず、大切なものを失うほどに果たすものが真の愛であると、示してくださいました。とても、わたしどもにはできないことを、父なる神と、御子なるイエス・キリストが、聖霊の交わりのうちに果たしてくださり、感謝いたします。ゆえに、聖なる霊に与るわたしどもも、イエス・キリストのゆえに、深い愛に倣う者とされていきます。いまだ、あなたの深い愛には、とても値せぬわたしどもではありますが、どうぞ、与えられた聖なる霊をよりどころとして、御心に適う者として、歩ませてください。主イエス・キリストの御名によって、祈り願います。アーメン。

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