2月25日説教のポイント
「誇れるキリストの弟子たち」
聖書 マルコによる福音書第8章31-38節
伝道師 三輪恵愛
①神のことを思えばこそ「苦しみ、排斥され殺される」十字架の死と復活
弟子のペトロにとって、イエス様が教え始められたことは聞き逃すことのできないものでした。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」正しさで言えば、長老、祭司長、律法学者以上であるイエス様が彼らに殺されるなど!思わずいさめるペトロです。しかしイエス様は、正しさを追い求めることで救われることはできないことをご存じでした。正しさでは救われない人々のための十字架。これが「神のことを思う」ことだとペトロを諭します。
②イエス様は「わたしの十字架」とはいわず「自分の十字架」と言われる
ペトロだけでなく、他の弟子たちと群衆も集めて、さらにお語りになります。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」イエス様は、わたしたちに「十字架を背負う」苦しみに満ちた歩みを示されているのでしょうか?まずイエス様ご自身が、この生き方を示してくださいました。御自分は正しいお方でありながら、それを捨て、十字架を背負われます。「自分を捨て」正しさを追い求める生き方には限界があるかもしれません。しかし示される十字架を背負う生き方は、誰でも選ぶことのできるものです。他の誰のものでものなく「自分の十字架」を背負うのですから。
③自分の正しさをすてて十字架を背負う歩みが福音そのものとなる
それにしても、「自分の十字架」を見出しイエス様に従って歩んだとして、それは決して楽な道ではないような気がします。しかし正しさを追い求める生き方から解放され、自分にしか背負うことのできない十字架を見出したとき、その生き方は、まさに福音を聞いて、イエス・キリストに従う生き方そのものになります。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。自分の正しさを大切にして生きていくのであれば、救い主であるイエス・キリストとの関わりが見えてこない生き方と言えます。ところが、「自分の十字架」があることを見出したとき、それは苦しみにおわるものではなく、イエス・キリストとの深い結び付きのなかで生きていく、福音に命を用いる歩みになっていきます。「わたしの言葉を恥じることなく、従ってきたもの」、むしろ十字架を見出し背負ってきた弟子たちの歩みを、イエス・キリストとの結びつきゆえに、神の栄光に与る「誇れる弟子」へ導いてくださいます。
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