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2月28日祈祷会 サムエル記上第15章

聖書研究・祈祷会

2018228() 聖書:サムエル記上第15

サウル王がついにサムエルと神様に見放されることになりました。あの喜びで始まった即位を思い起こせば悲しい結末です。それにしても、完全であるはずの神様の選びが不調に終わったことに、不審を禁じ得ないところかもしれません。神様はサウルの選びを「悔やんで(35)います。こうして神様に選ばれたサウル王が短い在位で王位を取り上げられることになった出来事から、神様が「悔やむ」ことになった理由に焦点を合わせながら御心を訊ねたいと思います。

①「聖絶」によって御業を行われる神様

今回は異民族アマレク人への裁きが語られるところから始まりました。アマレク人は、出エジプト17章、民数記14章、士師記3章、士師記6章、士師記10章とペリシテに次いで神様の救いの御業を妨害した民です。申命記25章では「天の下から記憶を消せ」と神様が言われるほどでした。「あなたたちがエジプトを出たとき、旅路でアマレクがしたことを思い出しなさい。彼は道であなたと出会い、あなたが疲れきっているとき、あなたのしんがりにいた落伍者をすべて攻め滅ぼし、神を畏れることがなかった(申命25:1718)。」もう一つ異民族カイン人が登場します。士師記4章で女士師デボラがカナン人と戦ったときに、カイン人の女ヤエルがイスラエルに味方したことがありました。以来、カイン人は友好的な民族として受け入れられています。さて旧約聖書で神様は、敵対する異民族を滅ぼすようにと、「聖絶(ハーラム)」を命じることがあります。ここには「戦いは神様の聖なる行いであって、すべてのものは神様に奉げられる」という考え方が先行しています。現代を生き、戦争を肯定しないわたしたちには抵抗のある思想かもしれません。ここでは「救いの御業に抵抗する勢力と闘うためにイスラエルが選ばれている」という事柄の本質に目を向けたいところです。新約聖書も合わせて読むわたしたちは、信仰の戦いは血肉へのものではなく、神の御国の広がりを阻む悪魔的な策略に対抗する戦いです(エフェソ6:12)。「聖絶」は限定的に取り扱うべきものであることとご理解ください。

②サウルが人格的に崩れていく姿

そうではありますが、本章においてはアマレクへの「聖絶」がサウルに課せられた使命であることに変わりはありません。ところがサウルは命令を果たしません。「上等なものを惜しんで(9)」、「兵士が供え物のためにとっておいた(15)と嘘をつきます。21節では、サウルも行ったことなのに兵士に責任を擦り付けています。17節でサムエルが指摘するように、今回のサウルには王の自覚も欠如していました。そして23節に裁きの言葉を聞くことになります。「主の御言葉を退けたあなたは王位から退けられる」。サウルの罪として指摘されていることは、王として神様の御心を執行できる立場におりながら、物への執着、虚言、責任逃れ、自覚の欠如など、委託された務めを軽んじたところではないかと思います。「彼はわたしに背を向け、わたしの命令を果たさない(11)との言葉に、たとえ表面的には小さな問題だとしても、心の背きを悲しまれる神様の姿が示されていると言えます。

③憐れみとともに計画は新しくされる

 サウルを王に選んだことを悲しまれる神様です。また「サムエルは深く心を痛め、夜通し主に向かって叫んだ(11)と、選びに立ち会ったサムエルも痛みを共にしています。ところで、今日の主題ともいえることは、「神様が悔やむのはなぜか」という点でした。区別しておきたいところは、この言葉の意味は新約聖書で言われているような「悔い改める」という意味とは異なる点です。11「悔やむ」35「悔いる」、そして29節の「気が変わる」は、同じ言葉「נָחַם(ナーハム):慰める、残念に思う、憐れみを感じる」という意味です。いくつか挙げられる字義のなかでも注目したいものは「残念に思う」というものです。神様もサムエルも、救いのために大いに期待して相応しい賜物と祝福をもってサウルを選びました。しかしサウルはその期待に応えられませんでした。神様は御自分の計画について救いの御業を貫徹するという点においては、決してそれを後悔し、救いの御業を諦めることはありません。しかし、そのために選んだ人が試練に耐えられなかったとき、救いの御業が滞りなく進むために、残念ながら仕方を改めることはあり得ます。今回のサウルが見捨てられる原因となったものは、神様の気まぐれな心変わりではなく、選ばれた人が試練に耐えられないという「弱さ」によるものでした。29節ではサムエルは「神様は気が変わらない」と一見矛盾していることも言っています。しかしこれは誠実ではないサウルに宣言するにあたり、決然と裁きを語らなければならない牧者の厳しさを現しているとも言えます。むしろサムエルは「嘘をついて、気が変わったのはサウルのほうである」と暗に指摘しています。

牧童であったサウルを選んだのは神様であり、油を注いだのはサムエルです。けれども選ばれたものが初めからすべての賜物を備えられているのではありません。務めに良く耐えられるように、さまざまな試練を通して養うことも神様の御業です。前回の13章では、すでにサウルの王への適性が怪しまれる出来事がありました。息子ヨナタンの独断を指摘できず、サムエルを待たずに勝手に祭儀を捧げたところなど、人間としての弱さと、神様に信頼をおいていない姿が表に出てきていました。そこで誠実にアマレクを「聖絶」することを通して試練が与えられたのでしょう。神様が残念に思う通り、サウルが王としての務めに耐えられない器であることが明らかになりました。しかし御業は次の段階へと進みます。「主はイスラエルの王国をあなたから取り上げ、あなたよりすぐれた隣人にお与えになる(28)とダビデの登場を暗示する言葉が語られます。

(まとめ)聖書全体に目を通してみれば、選ばれたものが激しい試練に遭う記事は、たくさんあります。神様に霊的な素質を見込まれ、神の国の建設に重要な人物として覚えられているからだと言えるでしょう。ルターが聖書翻訳に没頭したヴァルトブルグ城には、悪魔にインク壺を投げつけたときの染みが残っています。もちろん著名な信仰者ばかりではなく、すべての信仰が与えられた人に、そのことが言えます。福音を告げ知らせる大切な務めに召し出された以上、試練のなかに置かれることは避けられませんが、それは良い働きをさせてくださるための備えと受け止めたいと思います。イエス様がゲッセマネで心を尽くして神様に祈ってくださり、わたしたちの飲み切ることのできない杯をまず飲んでくださいました。この方がすでに試練に打ち勝ってくださったことに信頼し、イエス様の執り成しに支えられつつ、互いの信仰と試練のために祈りあう群れでありたいと思います。

(祈り)主よ、あなたはわたしたちが人として耐えられない試練をお与えになるお方ではありません。救いの御業が進むために、互いの試練のために祈り合う群れとしてください。あなたの御名を呼ぶ魂のために、福音に仕える群れとして導いてくださいますように。

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