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3月18日説教のポイント

「弱さも賜物へ」

聖書 ヘブライ人への手紙第55-10

       伝道師 三輪恵愛

①「大祭司」が人から選ばれることの意味と限界

  ヘブライ人への手紙は他の書簡には見られない「キリストは大祭司」という独特の視点をもっています。旧約においてはモーセの兄、アロンの系統が祭司としてつとめを果たしてきました。神と人の仲立ちをする祭司は、人として弱さを抱えているからこそ、罪の執り成しができると語られます。しかし祭司のなかには、人としての弱さに負けることもありました。アロンの子孫たちが祭司でありながら堕落することがあり、またローマ帝国にイエス様が十字架に架かるよう裁判を仕向けたのは、大祭司カイヤファでした。祭司が人から選ばれることにおいて、人として抱える弱さは、「必要用件」と「限界」の両面性を持つものでした。

②イエス様が神であり人だから、誰でも手紙の読み手となりうる

そこで今日の御言葉です。「キリストが大祭司である」と語ります。「わたしは今日、あなたを産んだ(5)」、つまり神と同質でありながら、人として生まれてくださったイエス・キリストが神と人の仲立ちをしてくださるわけです。受難節、人として歩まれたイエス・キリストの苦しみが際立つところです。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら(7)」ゲッセマネで祈られ、裁判で鞭うたれ、十字架の上でなお執り成しの祈りをささげられたイエス様。わたしたちと同じ痛み、悲しみ、弱さを知る「人である」とのただ一点において、この手紙を読むすべての人とかかわりが生じてきます。

③「弱さ」を抱えたままでいい。「弱さ」が賜物とされていく恵み!

「キリストの苦しみ」に思いを致す受難週と言われます。「キリストが十字架を負われたのだから、同じく十字架の苦しみを負わなければ」とご決心されれば、敬虔な志だと思います。しかし「キリストの十字架」をわたしたちが背負うことは出来ませんし、それは求められておりません。「キリストの従順(9)」は大祭司の務めとしてのものであり、「わたしたちの従順」は、大祭司キリストが成し遂げてくださった執り成しと赦しに信頼を置くことです。キリストのように「完全な者」となる必要はないのです。「弱さ」を抱えたままだからこそ、そこに大祭司とのかけがえのない関わりが与えられます。すなわちキリストのまえにあっては人としてのあらゆる「弱さ」も、キリストにいつまでも執り成していただける、賜物として祝福されるのですから。

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