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3月14日祈祷会 サムエル記上第17章17-54節

ペリシテとの戦いが大きく展開していきます。「エラの谷での戦い」、有名なダビデとゴリアテの戦いです。前章では、ダビデには油は注がれたものの、王位に至るまでしばらく養いの時間が必要であるところを見てきました。主なる神様の御手のなかで、ダビデが王としての賜物が与えられていく場が整っていきます。今日は、巨人ゴリアテの挑発に神様への信頼が揺れ動くイスラエルやサウル王と、単身、神様への信頼を携えてゴリアテに立ち向かうダビデの姿に焦点を当てていきます。

1.神ご自身が救いの戦いに向かわれる

そもそもこの戦いは誰の戦いかということを確かめておきます。なんどか「生ける神の戦列」という言葉がありました。この「戦列」という言葉は、「招いて集める」という意味にも用いられる言葉です。以前もふれたように、このころの戦いは神様ご自身が戦われるものとされていました。神様について言えば、この戦いはペリシテからイスラエルを救うためのものです。ですから彼らを「招いて集め」戦列を組ませたのでした。しかし、イスラエルの兵隊たちはすっかり怖気づいています。また王であるサウルの言葉にも、戦いを導かれる主なる神様への信頼は聞こえません。それはゴリアテを破ったものへ約束される褒美からもわかります。「彼を討ち取る者があれば、王様は大金を賜るそうだ。しかも、王女をくださり、更にその父の家にはイスラエルにおいて特典を与えてくださる(25)。かつてモーセもヨシュアも、士師たちも、イスラエルを救おうとされるのは神ご自身であり、そこに信頼を置いたとき御業は現れると語ってきました。それに比べるとサウルの褒美にあるのは人間的栄誉と、王の権威を失うまいとする心の在り方ではないでしょうか。魂の救いのために主ご自身が戦っているなかで、人間的な名誉や金銭が代償とされれば、命を惜しむばかりです。兵たちは褒美を口にはしますが誰も一騎打ちに名乗りを上げません。神様の救いの戦いにも関わらず「戦いのご褒美」、つまり見返りを求めて、戦うかどうかを決めることしか出来なくなっているからでしょう。

2.ダビデの言葉の中に信頼と聡明が光る

陣中で兵士たちが噂をしていたことが、ダビデの耳にイスラエルの苦戦を聞かせることになりました。しかもその前に、ダビデはゴリアテの挑発も耳にしています。そこでダビデは問いかけます。「あのペリシテ人を打ち倒し、イスラエルからこの屈辱を取り除く者は、何をしてもらえるのですか。生ける神の戦列に挑戦するとは、あの無割礼のペリシテ人は、一体何者ですか。(26)二つの疑問をダビデは提示しています。一つは、ゴリアテを倒した後の見返り。二つに、ゴリアテが何者か、ということです。一見、見返りを確認しているようにも思えます。長兄エリアブもそう思ったのでしょう。「お前の思い上がりと野心はわたしが知っている。お前がやって来たのは、戦いを見るためだろう(28)。」しかし、よくよくダビデの問いかけを聞き直してみると、「この屈辱を取り除く」ことが戦いの目的だと捉え、「生ける神の戦列に挑戦」しているゴリアテに何ができるだろうか、と怯む気配がありません。二つ目の、「一体何者か」と言う言い方は、単なる疑問形ではなく、「誰が出来ようか、いや出来まい」という反語表現にも訳せるところです。新共同訳では「一体」をつけてその意味を残そうとしています。強調しているところは、「生きておられる神に向かって語られる屈辱は、主ご自身が取り除かれる」という、信頼ではないかと思います。決して褒美に目がくらんだのではありません。ですから、長兄エリアブの詰問にも、冷静に答えます。「わたしが、今、何をしたというのですか。話をしているだけではありませんか。」と、怒りもしません。的外れな非難は受け流して、他の兵士にもう一度問いかけて、大切なことを確かめようとします。主に信頼している人は、的外れな中傷非難にも冷静に対処している姿を見る思いです。

3.「鎧は不要」主への信頼の極み

「生ける神の戦列に挑戦するとは」とのダビデの言葉がサウルの耳に届くことになりました。サウルは少年であるダビデの姿に不信を隠しません。ダビデはこう答えます。「僕は、父の羊を飼う者です。獅子や熊が出て来て群れの中から羊を奪い取ることがあります。そのときには、追いかけて打ちかかり、その口から羊を取り戻します。(中略)わたしは獅子も熊も倒してきたのですから、あの無割礼のペリシテ人もそれらの獣の一匹のようにしてみせましょう。彼は生ける神の戦列に挑戦したのですから(3436)。ダビデは羊飼いとしての経験から語っているように聞こえます。しかしそのあとに、ダビデは更に「獅子の手、熊の手からわたしを守ってくださった主は、あのペリシテ人の手からも、わたしを守ってくださるにちがいありません。」と、これまで主に守られてきたことへの信頼を告白します。自分の功績ではなく、信頼したからこそ羊を守れたと語っているのです。一方、頑迷なサウルは、「これまで自身を守り、信頼してきた鎧」とダビデに着せようとします。ダビデとサウルの信仰の違いがここに現れます。サウルは、なぜ王位を奪われることになったのか、まだわかっていないようです。目の前の少年がここまで主に信頼しているのに、サウルは自分の信頼しているものを押し付けようとします。王様と羊飼いの少年、人間の目から見ると立場の違いに目が向けられますが、信仰には、地位や、名誉や、経験は関係ないことが露わにされています。みずみずしい主なる神様への信頼が少年ダビデの心に宿っていました。かくして主に信頼するダビデは、石礫一つでゴリアテを打ち破りました。

(まとめ)ダビデは主に信頼する姿を表しながら、主が召し集めたイスラエルの戦列を脅しまくったゴリアテを打ち破りました。イスラエルは少年ダビデの信仰に救われたとも言えます。ところで、この受難節、ダビデの姿に、キリストに通じるものは見いだせないでしょうか。キリストはわたしたちの羊飼いであり、十字架に架かるまで従順なお姿を見せてくださいました。十字架の判決を受けるにあたり、御自分の功績をまったく語らず、祭司長やポンティオ・ピラトの語らせるままにされました。そうして脅してくる罪と死に立ち向かわれました。十字架でご自身の霊をお委ねになるまで従順であられたのは、復活における勝利に信頼しておられたからではないでしょうか。石礫がゴリアテの眉間を打ち破ったように、十字架が「死」の眉間に石礫を打ち付け、わたしたちを脅しまくっていた「屈辱の死」は、打ち破られました。受難のとき、さんざんに苦しめられたイエス・キリストの肉の痛みに「同情」を寄せ、悔改、赦罪を祈ることもあります。大切なことですが、主に信頼したキリストの勝利に結びついてこそ、さらに受難節の意味を深められるのではないかと思います。わたしたちの主は、死の脅しに恐れおののくわたしたちの代わりに、その牙から羊を守ってくださるお方です。

(祈り)いまも「生ける神の戦列」である諸教会を召し集め、守ってくださる主なる神様。キリストがわたしたちの牧者として導いてくださることに感謝します。勝利の戦いに与るためにも、受難のときを主への信頼を堅くするときとして守らせてください。

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