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3月7日祈祷会 サムエル記上第16章

聖書研究・祈祷会

201837() 聖書:サムエル記上第16

サウルを選んだのは神様の御心によるものでしたが、サムエルもサウルに期待をかけていました。前章では「夜通し主に向かって叫んだ」とありますから、嘆きは深かったことと思います。ところが神様はサムエルを次の務めに遣わそうとしているかのようです。「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか」同じく前章に「主は悔いられた」と言う言葉があり、サウルが試練に耐えられなかったことを残念に思った神様です。しかし、救いの御業を滞らせはいたしません。次の新しい御業を示すために、サムエルを励まします。

1.サムエル、ベツレヘムに遣わされる

「あなたはベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見出した(1)讃美歌「エッサイの根より」に歌われるエッサイ、そしてイエス様がお生まれになるベツレヘムが語られています。またベツレヘムと言えば、ナオミと一緒にルツが来て、エッサイの二代前のボアズと結ばれたところでもあります。

こうしてダビデの選びのためにサムエルがベツレヘムへ遣わされることになります。ところでサムエルはサウルの報復を恐れていました。前章において、サウル自身にはすでに王位が奪われることは宣告されていました。しかしサウルはなおしばらく王の実権は持ちつづけます。そしてサウルの晩年は狂気に満ちたものとなりますので、サムエルがサウルの報復を恐れたのも致し方ないことだと思います。サムエルがサウルを恐れPhoto_3たのは、地理的なことも関係していると思われます。図にあるように、起居していたと思われる聖所シロ(ベテルよりさらに北)や故郷ラマとベツレヘムの間に、サウルがいたギブアがありました。地理的な関係も含まれていたことも考えら れます。そこで神様は「雌牛を携えて行きなさい」といけにえをささげることを目的にさせます。そうすればサウルに怪しまれません。神様は恐れるサムエルに知恵を授けたと言えます。

ベツレヘムの長老は「不安げに」迎えます。同書7:15によれば、サムエルはベテル、ミツパ、ギルガルを巡回して祭儀や裁きを行っており、普段はラマに居住していました。ですから、いけにえをたずさえてわざわざベツレヘムに来たことは、なにか理由があるのではないかと長老は不安に思ったわけです。「平和なこと(シャローム)です」とサムエルに言われ、安心したことでしょう。

2.「心によって」ダビデを選ぶ神様

いけにえをほふり、サムエルとエッサイ、そして息子たちは共に食卓を囲むことになりました。ところでサムエルは「エッサイの息子たちのなかに」とは聞きましたが、名前と容姿は聞かされていません。エッサイの息子全員を見定めることになります。サウルを選んだとき、彼は「美しい姿で背丈はだれよりも高かった(9:2)とありました。サムエルは今回も容姿が良い人が選ばれると思ったかもしれません。しかしここで神様は「主は心によって見る」とお語りになります。この「心」とは人間の内面性のことを広く指す言葉です。見た目との対比も合わせると、このとき神様は容姿ではなく人の内面性を見極めることをサムエルに告げたと言えます。

結局その場にいた兄弟たちはすべて選ばれず、残った末の息子ダビデが呼ばれることとなりました。「主は心によって見る」と言われましたが、ダビデのどのような内面性を見たのでしょうか。彼は末っ子で会食に招かれませんでした。末っ子のダビデが兄たちにどういう扱いを受けていたか垣間見るのは次の17章においてです。長兄のエリアブに頭ごなしに怒られる場面があります。兄たちが美味しい思いをしていたときに、一人で羊の番をしていたところは、ダビデの立場が弱く、自ら誇れない姿が見受けられます。もう一つ、容姿の美しさに加えて、「目は美しく」とありました。この「目(アーイーン)」という単語は器官の一部としても用いられますが、神様が物事を見定めるときにも用いますし、人の感情や性格を現すときにこの言葉が用いられます。「泉」からきており、心の奥底がそとに現れる隠すことのできないところという意味も込められています。ダビデはサウルに比べれば、羊の番をさせられる末っ子で、誇るような容姿ではありませんでしたが、「心によってみる」神様はこのたびダビデを選びました。神様がこのときみたダビデの内面性は、心で神様に背いたサウルとは異なり、のちほど苦しい時も罪を犯した時も主の名を呼び続けた信仰にあらわれていくことになります。

3.サウルへの悪霊とダビデの慰め

 選ばれて油を注がれたダビデの初仕事は、サウルを竪琴で慰めるというものでした。ここで関心を持たせられるのは、「主から来る(神からの)悪霊(ルーアッハ・ラー)(14,15)です。聖書における「悪霊」や「サタン」と表現される存在は神様の支配下にあり、善と悪が戦う二元的世界観ではありません。ヨブ記のように、サタンですら神様のお許しがなければなにも出来ません。また「悪い(ラー)」という形容詞は、およそ不快なもの、苦しみ、嘆き、重荷など、人間が本能的に嫌悪するものに用いられます。世の中には、存在を疑問に感じるほど嫌悪を催すものがありますが、それらは避けるべき点において意味を見出すことができます。命の危険や祝福から遠ざけようとするものも、そこから人を遠ざけるという意味があります。ここでの「悪い霊」の意味は、サウルに心の悩みを取り除かせようとして送ったと受け取れるところです。サウルの苦しみがダビデの名前を家臣たちの口にのぼらせ、サウルに仕えることになりました。それまで顧みられることのなかった末っ子のダビデが賜物を見出されることになります。神様の救いの御業があらわされる様子を見るようです。

(まとめ)ダビデは油注がれましたが、まだ王ではありません。これから「即位にむけた備えの時」となります。末っ子で顧みられることのなかったダビデは、心と賜物を見出され選ばれました。一方、サウルはしばらく王の実権を持ち続けます。ダビデはサウルの傍近くで仕えながら、選ばれなかった王の末路を間近で見つつ、自らは王として必要な経験を積むことになります。サウルの王権のはく奪は、一見、選びを無為なものにするかのようでした。「神様も、無意味なことをなさるのだろうか」と思ってしまうような出来事ですが、こうしてサウルの道備えがダビデの即位のために用いられていくことになります。信仰者は神様の視点を与えられたとき「悪いことにも、なにかしらの意味をもたされている」と気づかされることがあります。「悪い」とまず感じる試練、そうなったときに意味を見出す恵みに与りたいと願うものです。

(祈り)信仰の養いのために試練を与えたもうこともある神様、どうか意味を見出すまなざしと気づきをお与え下さい。信仰の試練のさなかにある仲間たちにも、救いへ導かれる御心を見出すことのできる聖霊を遣わしてくださいますように。

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