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4月1日説教のポイント

「誰でも、どこまでも」

聖書 使徒言行録第1034-43

       伝道師 三輪恵愛

1.「分け隔てをしない」神のお姿を示されたイエス・キリスト

イエス・キリストの復活をお祝いする日を迎えました。キリストの教会が永きに亘って復活祭を祝ってきたのは「大切な人が復活したことを喜ぶ」ことも勿論、一つの理由です。しかしそれだけではありません。このお方の復活によって、「どんな国の人であっても神に受け入れられる(35)」「誰でもその名によって罪の赦しが受けられる(43)」ことが示されたからです。今日の御言葉はイエス様の一番弟子ペトロによるものです。開口一番「神は人を分け隔てしないことがわかりました」。当たり前のことのように思えますが、じつはペトロ自身が「分け隔て」をしていました。彼だけでなく多くの人が、自分を基準にして人を「分け隔て」していたのです。イエス・キリストは人の「分け隔て」を取り除くために命を献げた人でした。生活のなかで虐げられ、軽んじられ、赦しの言葉すら語りかけてもらえなかった人たちと共に生きる姿を示したのです。そのため反感を買い十字架に架かりました。

2.神はキリストの復活を証しをする人を「選び」用いる

今の世の中も、人が自分を基準にして他者を「分け隔て」することで、多くの分断が生じています。主なる神は「分け隔て」せず共に生きようとする人たちを「正()しい」と語り励ましています。ですからキリストの復活は、このお方の言葉と行いが、神の御心である大きな証しです。そこで神は、キリストの復活の証しを世界に伝えるためにある人々を選んでおられました。証しを語りかけることによって、聞いて信じる人を起こすためです。目に見えるものに頼るのではなく、証しを聞いて信じるところに、確かな信頼が生まれるものです。「分け隔て」をしない神は、証しを聞いて信じる人は誰でも救われるため、この仕方をお用いになりました。

3.審判者が「分け隔て」をしないイエス・キリストであることの救い

復活のイエス・キリストは御自分が「審判者」であることを告げました。いつか裁かれる日が来ることは恐ろしいことかもしれません。しかし罪は「良くない」と善と悪がしっかり裁かれなければ、今の世に正しいこと、すなわち正義を求める意味がなくなります。しかも審判者がイエス・キリストであることは恐ろしいことではありません。このお方は地上を歩まれたとき、「分け隔て」なく人と交わり、貧しい人、病に苦しむ人を救い、罪に悲しむ人を赦しました。「分け隔て」せず、どのような罪でも赦し、どのような人であっても受け入れてくださるこのお方が最後に待っていてくださること。これは今を生きるときの大きな希望です。こうしてイエス・キリストによって誰でも赦されるという福音が、どこまでも広がっていくのです。

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