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4月11日祈祷会 サムエル記上第20章

しばらくサムエルのところに身を伏せていたダビデが、ヨナタンのところに戻ってきました。「逃げ帰り(1)、「バーラク:飛んでいく、走っていく」という言葉です。それほど、ダビデにとっては盟友ヨナタンのもとへ急いで帰って来たかったのでしょう。飛ぶように帰ってきたダビデの思いを「逃げ帰り」と表現したように思われます。今日の箇所からは、サウルの試練のもとに置かれながら、ダビデとヨナタンの友情が深まっていく様子を追っていきたいと思っています。

1.訴えるダビデと同情するヨナタンの対話

 逃げ帰ったダビデは訴えます。1節の続き「わたしが、何をしたというのでしょう。お父上に対してどのような罪や悪を犯したからといって、わたしの命をねらわれるのでしょうか。」試練にあって、さすがのダビデも嘆きます。旧約聖書ではヨブ記のヨブの嘆きに近いものがあります。聖書は、正しいと言われる人の身の上にも試練が起きることを隠しません。正しく歩む人が試練に遭う時、その痛みと傷つきは激しいものかもしれません。ダビデのヨナタンへの訴えも緊迫しています。

 励ましを語るヨナタンでしたが、これを聞いたダビデは納得できない様子です。「それでもダビデは誓って言った」。どうも、ヨナタンはダビデの訴えの深刻さに今一つ、寄り添えていないようにも聞こえます。ヨナタンはどう言っていたでしょうか。2節「そのような事を父がわたしに伏せておくはずがない。そのような事はない」。ここの解釈は難しいです。なぜならばヨナタンはサウルのダビデへの殺意を一度知っています(19:2)。あるいは、ヨナタンがサウルを思い直させたあと、王女ミカルが絡んだダビデ殺害未遂を知らなかったとすれば、矛盾は解消するかもしれません。いずれにしても、ここではヨナタンはサウルの殺意を信じられなかったと読み取って良いのだと思います。前回見たようにダビデを愛するヨナタンは、父サウルのことも大事にしていました。サウルの激しい憎しみを知りながら、二人の仲を執り成そうとして「父サウルがダビデの命を狙うことはありえない」と希望を語ったのでしょう。

 ヨナタンの言葉は友情ゆえの慰めに聞こえますが、ダビデにとっては今一つ安心できる言葉にはなっていません。そこで3節「主は生きておられ、あなたご自身も生きておられます。死とわたしとの間はただの一歩です」。この痛切な言葉は、ダビデとヨナタンの立場の決定的な違いを訴えています。ヨナタンは主に守られ、宮廷に住まい王子として暮らしています。ダビデの友でありながら、サウルに執り成すこともできる立場にいます。身の安全が確保されているのです。かたやダビデは実際に命の危険にさらされています。この差は歴然としています。安全な立場からは実際に危険な目にあっている人の苦しみは理解しにくいものです。試練は当事者にとってのみ苦しい現実なのです。

 ヨナタンはそれでもダビデのためになにかをしてあげたいわけです。そこで4「あなたの望むことはなんでもしよう」と語ります。日本語の訳は、ダビデとヨナタンが王子と入り婿の上下関係にあることが強く出ているように思えます。原典のヘブライ語は敬語ではありません。「あなたの魂が願うことを、わたしはあなたのためにするだろう」。魂が願うことをするわけです。相手の言葉を聞き取る姿勢を見せます。苦しみのなかにある人に寄り添うための唯一と言ってよい方法は、「心からの苦しみと願いを聞く」ことから始まるのだと改めて思います。

 親しい人が安全な場所から慰めの言葉をかけてくれることも嬉しいことですが、試練のなかにあるときに本当に嬉しいことは、さらには嘆きの訴えに耳を傾けてくれるときではないでしょうか。わたしたちにとってさらに大切なことは、彼らの対話が主なる神様に聞かれていることを意識していることです。「主の御前で」「主が共に」、神様に対話が聞かれているなかで深まる交わりが語られています。

2.新月祭でヨナタンはサウルの怒りを知る

新月祭は太陰暦の新月を月の1日としてお祝いする日です。サウル王家の食卓、二日目にサウルはダビデがいないことに気づきました。ヨナタンは打ち合わせ通りダビデが「ベツレヘムに帰った」と偽りの言葉を告げます。親友ダビデの命の危機に際して、ヨナタンも父にたいして嘘をつかざるを得ませんでした。

ヨナタンの言葉にサウルが怒ったのは、嘘をついているのを見抜いたからなのか、勝手にダビデの帰郷を許したからなのか、はっきりしません。いずれにしてもサウルの怒りは、ダビデに抱いている妬み、そして王位を奪われるかもしれない恐怖をよりどころにするものでもありました。優秀なダビデを妬むあまり、彼を手元に置いておきたい心が現れています。他者への憎しみは、その存在への拘りであることをサウルの極端な姿を通して描いているように思えます。憎しみはとにかく人の心を頑なに、不自由にします。ついにヨナタンに向けても憎しみをぶつけます。自分の息子すら殺すほどに、ますますサウルの病は深くなってしまいました。かたや命の危険を犯しながらも、友人を助けるヨナタン。彼の決意の前に、友情は王子としての地位よりも高かったのです。魂が結びつくほどの交わりのほうを、彼は重んじました。

3.別れる二人と共にいてくださる主

 翌朝、ダビデを逃がすために野原に出るヨナタンです。ダビデはベツレヘムにいることになっているので公にはできません。打合せ通りに暗号で逃亡を促し、最後の別れを交わします。「安らかに行ってくれ。主がとこしえにおられると誓い合ったのだから」。神の御前に契約を交わしたダビデとヨナタンは、試練を通して一層深い友情を結ぶことになりました。はじめはダビデの苦しみに寄り添うことができなかったヨナタンも、父の尋常ではない姿を見てダビデと同じように槍まで投げつけられ、「怒って食事の席を立」ち、「心を痛め」ました。同じ苦しみに遭うことで、はじめてダビデとヨナタンは同じところに立ちながら、悲しみを分かち合うこととなり、一層、彼らの友情は深いものとなりました。最後の42節は、この契約が子孫に至るほどに強められたことを語っています。

(まとめ)ダビデとヨナタンの友情を神様が祝福していることに寄せながら、復活節の歩みのなかで、神がわたしたちの友達のように苦しみをも経験してくださったことを感謝したいと思います。「あなたがたはわたしの友です(ヨハ15:15)とイエス様は言ってくださいました。「主がとこしえにおられる」ことを御言葉から聞きつづけた代々の教会も、苦しい時こそ共にいてくださることを語るイエス・キリストの真実を大切にしたことでしょう。妬み、恐れ、謂れのない憎しみにさらされるなかで、救い主との新しい契約が、死の恐怖も克服するほどの喜び、平安に変わっていくことを経験したに違いありません。教会とともにいてくださった同じ聖霊が、いまこのときもわたしたちに与えられています。信仰の子孫に至るまで守ってくださっています。

(祈り) 試みのときにこそ共におられる主を大切にします。試練を共に潜り抜けるとき、主にある結びつきが一層強められる恵みを受け取ることができますように。

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