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4月18日祈祷会 サムエル記上第21章


  盟友ヨナタンとの別れを惜しみながら、ダビデは逃避行をはじめました。彼はサウル王から、そしてペリシテからも命を狙われています。明日をも知れない旅路のなかで、ダビデは知恵と力を尽くします。この逃避行はサウル王亡き後、イスラエルに王として迎えられるまで続きます。試練のなかで逃げ惑いながら、逞しく成長し、やがてはイスラエルの王位に至ることとなります。

この歩みを終始見守り、導かれるのは主なる神様です。神を中心にダビデの逃避行を読むならば、試練のなかで「主が共におられる」ことを証ししながら、王としての備えを与えていると考えることもできるでしょう。これを読むわたしたちにとっては、試練を通してかけがえのない恵みが与えられていることに気づかされるところかもしれません。

1.ノブの聖所にて、御言葉とパンを求め

ダビデは逃避行のはじめに、まずノブに立ち寄ります。祭司がいることに加え、「聖別されたパンをささげる」という表現もあるように、ここは礼拝のための聖所の一つでした。ダビデはサウルの密命を帯びているように装って、真実を隠しながらパンを求めています。一見、パンをどうにかして手に入れたくて、祭司にその場しのぎのことを語っているようにも聞こえます。

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ころでノブでの出来事のキーパーソンとなるのが8節の「エドム人ドエグ」です。彼はサウルの家臣です。次章の第2210節を見ますとドエグはサウルに、ダビデと祭司アヒメレクのやり取りを報告しています。「アヒメレクは彼のために主の託宣を求め、食料を渡し・・・(22:10)。この報告については、アヒメレクも否定していません。このことも合わせて考えますと、ダビデはパンだけではなく「主の託宣」も聖所に求めたようです。地図にありますように、彼の故郷ベツレヘム(ヘブライ語で「パンの家」、パンを良く焼いた?)までもう少しのところでした。パンを手に入れるだけならば、そこでもよかったはずですが、ノブの聖所に「主の託宣」とともに求めました。「主の託宣」に使われている言葉は「求める:שָׁאַל(シャール)」という単純なものですが、神に向かって用いられるときは「導きを求める」意志が含まれます。逃避行を始めたばかりのダビデにとって、真っ先にしておきたかったことは、主なる神様からの導きを求めることだったのでしょう。彼はまず神の言葉を求め、そのうえで糧となるパンを求めます。ダビデは命の危険が迫るなかでも、御言葉を求めて心を備え、そのうえで生きるためのパンを求める人であったと言えます。

2.潜む危険と、身を守る剣を得るダビデ

「主の託宣」とパンを得たダビデは、次に武器を求めます。丸腰で逃げることには不安を覚えたように思えます。ここでも伏線としてのドエグの姿が関わってきます。「そこにはその日、サウルの家臣の一人が主の御前に留められていた(8)「留める」という言葉が、ここでは受身形で用いられており、ドエグは自分の意志ではなく、なんらかの理由のため、そこにたまたま居合わせたように書かれています。「主の御前」とありますから、サウルの用事で礼拝に来たのち、予定外のことで足止めをされていたかもしれません。サウルの家臣ですから、お尋ね者のダビデのことは知っていたでしょう。試練のさなかにあって、危険はどこに身を潜めているかわかりません。次章で明らかにされますが、ここではドエグはダビデに手をかけません。さすがに聖所において独断でダビデに危害を加えることには抵抗があったと考えられます。

ドエグの影がちらつくなかで、ダビデが剣を求めるところは暗示的です。見えざる敵を感じながら武器を求めます。しかもその剣はかつての敵ゴリアトの得物でした。ダビデがまだ少年だった頃、この巨人を相手にしたときは剣が重くて持てず、石礫で軽やかに戦いました。今は「それにまさるものはない(10)と身に帯びます。したたかさと力量が備わってきたように思えます。さらには、これからの試練には石礫だけでは戦えないとの慎重さもうかがえます。主が共におられるなかでの、ダビデの成長が促されているようです。

3.経験を活かして危機を逃れるしなやかさ

聖所ノブを去り、ガトに向かいます。ペリシテ領内に逃れなければならないほど、身の危険を感じていたのでしょう。しかしダビデは今や、ペリシテでは要注意人物とされていました。アキシュの家臣は言った。「この男はかの地の王、ダビデではありませんか。この男についてみんなが踊りながら、『サウルは千を討ち、ダビデは万を討った』と歌ったのです。(12)あの歓呼の歌声はペリシテにも伝わっていました。実力だけを問題にする敵対者は、ときとして味方以上に現実を露わに語ります。ペリシテにとって現実的な脅威はサウル王ではなく、ダビデでした。はからずも、実力としてはサウルよりもダビデが王に相応しいと認めたのは敵のペリシテでした。

アキシュの家臣は脅威であるダビデの命を狙おうとします。そこでダビデはとっさの判断で、錯乱者を装いました。この振る舞いも、命を守るためのしたたかさと知恵として受け取りたいと思います。ダビデはどちらの王国でも命を狙われています。天下に安住の地がない状況です。もはや観念したいと思えるなかで、懸命に生きようとしています。ノブの聖所で「主の託宣」を求めたように、危機にあっても絶望しません。これは、油を注がれて、主の器として立てられた事実が、ダビデの発想に自由を与えていると思われます。彼はすでに平静の心を失った人の姿を嫌と言うほど見てきました。サウルのそばに侍って竪琴を弾いたときの経験を活かしています。恐れて狂ったように振る舞いながら、希望を見失わない逞しさがあります。主に選ばれている確信があってこその判断と言えるでしょう。

(まとめ)逃避行の始まりにダビデが求めたものは、主の言葉、養いのパン、戦うための剣でした。さらに経験を活かして危機を潜り抜けていきます。主に選ばれた人にあの手この手と試練が殺到するのは、敵にとって要注意人物だからだと言えます。神と人、人と人の関係が正()しくあるようにと福音が語られるなかで、これを妨げようとする悪は見えないところに潜んで信仰に攻撃を加えてきます。ダビデの姿から、み言葉を祈り求め、日々の糧に養われ、神の言葉である剣(エフェソ6:17)を手に取り、経験もしたたかに用いて、試練を乗り越えるように励まされているように思います。救いに与る人は「聖別されている」という自己召命感もまた、救いの道をはずれずにしっかり歩むために必要なことだと思います。選ばれたことを確信しつつ試練を乗り越えたとき、大きな主の恵みを受け取ることが出来ればと願うものです(ローマ5:3-5)

(祈り)主よ、あなたがお選びになったわたしたちに日々必要なものを与え、試練のときも益々キリストの信仰を堅くしてください。

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