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4月25日祈祷会 サムエル記上第22章


2018425() 聖書:サムエル記上第22

ダビデの逃亡によって悲劇が起きています。前章でダビデのために神の託宣を伝え、パンと剣を与えた祭司アヒメレクとその一族が殺害されました。この殺害にはそのとき聖所ノブにいたエドム人ドエグが関わっています。同じくノブにいたダビデが「すべての命を奪わせてしまった(22)と痛悔しています。ダビデにも負うべき責任があるように記されていますが、この悲劇におけるダビデの責任はどのように受け止めれば良いのでしょうか。

1.王としての人望と自覚が備わるダビデ

サウルから逃げ続けるダビデのもとに人が集まり始めています。集まって来る人は親族ばかりではなく、「困窮している者、負債のある者(奴隷に売られる恐れがある)、不満を持つ者(「“マーラー:苦い”者たち」、嘆き、悲しみ、怒りなど、心が満たされていない)」、庇護を求める人たちです。生活や心が満たされていない人は、苦しみを理解し、傍らに立って守ってくれる人のもとに集まることが示されているようです。助けを求めて集まって来た人たちを守ることは王の務めです。王の人望がダビデに備わってきているようです。

王の自覚も備わってきたようです。これからサウル王と対峙することになるかもしれません。ダビデは両親の安全を考えて、モアブ王に保護を託しました。モアブと言えば、ナオミとルツを思い出します。ナオミはベツレヘムからモアブに嫁いだ人でした。ですからダビデは、モアブの血を引いています。ダビデ自身がモアブ人と関係が深いことに加え、大切な人を守るため、モアブ王と交渉できる立場を自覚したようです。ダビデの依頼の言葉には信仰が込められています。「神がわたしをどのようになさるか分かるまで、わたしの父母をあなたたちのもとに行かせてください(3)ダビデの関心は「私が王として出世するかどうか」にあるのではなく、「私を王として召した神が何を起こされるか」にありました。こうして王としての人望と自覚を備え始めたダビデのもとに、ガドという名の預言者が現れます。ガドは十二部族の一つにも見える名前ですが、個人としての彼についての詳しい記述はないので、特別な人物ということではないようです。むしろ預言者の言葉によって進退を熟慮している点が、「神がどうなさるか」と語ったダビデの言葉を証ししていることを裏付けていると思われます。

2.サウルの猜疑心とドエグの盲従

着実に王に召される道を歩むダビデに対して、サウルは王としての姿をますます貶めています。6節以降のサウルの言葉は、ダビデへの警戒心(「手に槍を持って(6))、優越の強調(「エッサイの子が、お前たちに畑やぶどう畑を与え・・・(7))、疑心暗鬼(「お前たちは・・・わたしの耳に入れもしない(8))が続き、王としての自信喪失がうかがえます。

そこに前章にも登場したドエグが、聖所ノブでの次第を報告しました。ドエグにしてみれば、「お前たちはわたしの耳に入れない」と 二度も言われたことから、忠義の証しとして耳に入れたのかもしれません。しかしこの報告で、サウルは「祭司に裏切られた」とさらに怒りを募らせることになりました。このドエグの報告は、前後をわきまえない愚かなものです。疑心暗鬼に陥っているサウルにとって、この報告はヨナタンや家臣に対する疑いを晴らすどころか、募った怒りがアヒメレクに集中することになっています。事実の報告ではあっても、事態を悪化させ、サウルをますます罪深くすることになっています。

この報告で、祭司アヒメレクは突然の不幸に陥ることになりました。申し開きのとおり、アヒメレクはダビデとサウルの緊張関係をまったく知らず、祭司として当然のことを行ったにすぎません。ところがドエグが報告した内容は、アヒメレクの潔白とはまったく関係がない出来事を引き起こしています。サウルの疑いのまえに真実がゆがめられています。

聞く耳を持たないサウルは、アヒメレクだけではなく一族を滅ぼすことを近衛兵に命じます。かつてはアマレク人に対する「滅ぼしつくしなさい」とのみ言葉に背いておきながら(サム上15)、祭司の一族を滅ぼすという矛盾を犯しています。アヒメレクが潔白であることを王の家臣たちもわかっていました。ましてや祭司、「手を下して主の祭司を討とうとはしなかった(17)との反応はもっともです。しかし、ここでもドエグがサウルの怒りに唯々諾々と従います。ドエグの愚かさは、誤った権力者の命令に盲従する人々に通じるものがあります。例えば歴史的には、日米開戦時の東条内閣、ナチスドイツのホロコーストを指揮したアドルフ・アイヒマン、そして、最近においては政権に尽くす官僚を思い起こさせます。命令に盲従する人物が力を持ち、事の善し悪しの判断力を失うとき、悲劇が起こることを歴史は伝えています。

ところで聖書は、信仰者が主の御言葉に従うことの大切さを説きます。しかし御言葉を聞いて行うこととは、決して盲従することではないと思います。み言葉の真意は、時代の文脈に合わせて吟味されるとともに、教会が永く大切にしてき教理や信条とも照らされることが求められます。教理、信条は、教会を場として語られてきた信仰告白の積み重ねと言えるからです。これらを踏まえながら御言葉に聞くことによって、その時代に相応しい御心が示されるのだと思います。イエス様のときにも、過度の律法主義が愚かな盲従を引き起こしました(「安息日に人を癒さない」など)。しかしキリストへの服従は、真理における自由と(ヨハネ8:31-32)、キリストに倣う愛の行い(一コリ13:4-7)に導くものです。

3.真実を語る者は守られる 

ドエグの蛮行により、アヒメレクの息子アビアタルが一人だけ生き残ることになりました。こうして真実を語った人が生き残ったことで、ダビデが主の選びによる器であることは、ますます証しされることとなります。「わたしがあなたの父上の家の者すべての命を奪わせてしまった(22)とのダビデの痛悔の言葉を聞いて「なぜ聖所ノブでドエグを留めなかったのか」と思うかもしれません。しかしそれは、聖書を通して無時間的に事態を俯瞰しているゆえに気づくことができるものです。ダビデはこのとき時の流れのなかで生きています。聖所ノブで剣を求めたように、彼はあそこでは無力でした。ダビデにアヒメレクの難を避けることは難しかったでしょう。むしろサウルの罪が募って引き起こされた悪を覚えておきたいと思います。

(まとめ)アヒメレクは「知らなかった」と弁解しながらも、恐れずはっきりとダビデの正しさを主張しました。信仰者はいつの世も「残りの者(イザヤ10:20-23)」とされます。アビアタルがダビデに守られることになったように、御言葉に立って真実を語るとき、主は残る民を必ず守ると約束してくださいます。真実を正しく語るなかで、誰に信頼し、誰が救ってくださるかが明らかにされていきます。迎合は権力者を増長させかねません。教会は、御言葉から真実を聞きとり、語り、世と対話を重ねながら、「然りは然り、否は否」と確信をもって語る群れとして召されています。

(祈り)今、生きて語られるみ言葉がわたしたちの歩みを照らしてくださいます。真実を聞き語るために、わたしたちを共に祈る群れとして養ってください。

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