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4月8日説教のポイント

「分かち合う命」

聖書 ヨハネの手紙一第1-22

       伝道師 三輪恵愛

1.「聞いて、見て、触れた」から、「命の言」が今に伝わる

主イエス・キリストの復活は、「目で見たもの、よく見て、手で触れ」ることのできる、体を伴うものでした。永遠の命を現すキリストの根本的な在り方です。思弁的、科学的、あるいは医学的な立場からの解釈は入り込む余地がありません。ところがこの『ヨハネの手紙』が書かれたころ、キリストの存在についていろいろと憶測で語る人たちが増えていました。「ナザレのイエスに神の霊が宿ったときだけキリストだった(ケリュントス的解釈)」あるいは「イエスは現実的存在ではなくただ人型に現れただけ(仮現論:ドケイズム)」はキリストの肉的存在を否定します。しかし憶測の言葉は命の力をもっていませんでした。彼らのグループは歴史のなかに消え去ることになります。復活の主に「伝えなさい」とはっきり言われた人は、「聞いたこと」を伝えました。ゆえに、復活の主の「命の言」が力強く今に伝わっています。

2.「神は光」と語るイエス・キリストは、光の中を歩ませてくださる

イエス・キリストがまず伝えたことは「神は光」ということでした。キリストの復活の体を信じない人たちは心と体を分割して「精神が浄められていればなにをしてもかまわない」と考え、現実生活をおろそかにしました。「キリストを信じさえすればよい」という安直な理解が人と人との関係を壊すこともあります。復活の主が体をとって復活されたことは、心も精神も魂も体も、人間の全存在が救われるためです。心の中だけの問題ではなく、現実のなかで命の言を聞き、どう語り、どう行うか。交わりを主の言と共に考え「光の中を歩む」なかで罪は清められます。

3. キリストの永遠の命を分かち合う交わりへ

「公に言い表す(ホモロゲオー:一つの言葉で語る➡公同の信仰告白を示す)」「交わり」「わたしたち」などの用語から察するに、手紙のあて先はキリストを信じる群れです。教会においての交わりは体があってこそのこと。教会の内で、また外で現実的に起きるリアルな交わり。そこでさまざまに痛みを伴うことが起きるのです。口論あり、無理解あり、いさかいがある。しかしこれが表にでるときこそ、「キリストの血による罪の浄め」が現実に起きるとき。「光の中を歩む」からこそ照らされる、罪の現実です。改革派はこのような教会の歩みを「聖化」とも言いましたが、中身は生々しいものです。痛み、悲しみ、嘆きを分かち合うことにもなりましょう。だからこそ「交わり」のなかで体をとって復活された主の、血による清めがわたしたちの命に経験されるのです。「交わり:コイノーニア」は「一つのものを分け合う」とも訳せます。命の言を分かち合いながら、教会は神よりの光の中を歩んでいくのです。

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