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5月16日祈祷会 サムエル記上第25章


「主よ、どうぞお語りください」と幼き日から預言者として選ばれていたサムエルが世を去りました。サムエルの死がたった1節のみで語られています。しかしサムエルの存在は、サウルが王としての務めを軽んじ始めてからはイスラエルの希望の拠り所であったことでしょう。サムエルは預言者でありながら、最後の士師でもありました(サム上第7)「全イスラエルは集まり」とあるので大きな葬祭だったことでしょう。ダビデにとっては油を注いでくれた導き手であるサムエルです。彼の死を悼むために参列し、サムエルに別れを告げて、再び野に下っていきます。

1.導き手が居なくなる恐ろしさ

25章がサムエルの死から語られたのは、それがダビデとナバルの諍いの遠因となっているからだと思われます。サウルが王の役目を放棄していたことにより、イスラエルはペリシテに容易に襲われるようになっていました。第23章のケイラでの出来事などを思い出してください。たびたびペリシテが侵入しています。イスラエルの主たる産業は、農業と牧畜でした。その土地から離れることなく、生業を営んでいた各地の有力者は、ペリシテのような異民族の侵入に悩まされていました。そこで身を守るために、ダビデのような自警団に頼っていたのです。ナバルもダビデたちに頼っていたことが、次の二つの節に示されています。「あなたの牧童は我々のもとにいましたが、彼らを侮辱したことはありません。彼らがカルメルに滞在していた間、無くなったものは何もないはずです(7節)」。「彼らのもとにいて羊を飼っているときはいつも、彼らが昼も夜も我々の防壁の役をしてくれました(16)

サムエルが全イスラエルを正しく裁いていたことは、守る働きをするものたちへ、正しく報酬が支払われるように導くものでもありました。8節の「祝いの日」は収穫の日のことで、この時に手伝った人には正当な分け前を与えられます。ダビデたちにも命懸けで羊や牧童を守った当然の報酬が支払われるべきでした。しかし神の言葉によってイスラエルを正しく裁いていたサムエルが死に、ナバルのように神を無視するものが出て来ました。そもそもサウルが王としての務めに専心していれば、このような事態が生じることはありませんでした。治めるべき人が役目を放棄すると、このような予期せぬ衝突と諍いが起きることとなります。

ダビデが「各自、剣を帯びよ(13節)」と言葉少なく命じたのは、苦渋の決断のようにも聞こえます。軽んじられたという個人的な怒りは聞かれません。彼には養うべき部下たちがいました。生活を守るために正当な報酬を要求するためのやむをえない選択のようにも受け取れます。

2.アビガイルの知恵に満ちた執り成し

このままではダビデたちがナバルをうち滅ぼしてしまうことになってしまいます。そこにナバルの従者の一人が、ナバルの妻アビガイルへ陳情しにいきました。これを聞き「アビガイルは急いで」ダビデがナバルのもとに向かうことを思い留めようとします。21節によれば、ダビデは「こう言ったばかりであった」とまさにダビデがナバルをうち滅ぼすことを決心したところにかけつけるあたり、アビガイルの決断の速さが重要であったことを示しています。彼女にしてみれば、勇者ダビデが本気になれば、ナバルが太刀打ちできるものではないことが良くわかっていたのでしょう。

ダビデのもとに駆け付け、ひれ伏しながら語る彼女の言葉のなかで、最もダビデの胸に迫ったものは、「主は生きておられ、あなた御自身も生きておられます。あなたを引き止め、流血の災いに手を下すことからあなたを守ってくださったのは主です。あなたに対して災難を望む者、あなたの敵はナバルのようになりましょう(26)「主が約束なさった幸いをすべて成就し、あなたをイスラエルの指導者としてお立てになるとき、いわれもなく血を流したり、御自分の手で復讐なさったことなどが、つまずきや、お心の責めとなりませんように(3031)でした。ダビデはこのように応えます。「あなたの判断はたたえられ、あなたもたたえられよ。わたしが流血の罪を犯し、自分の手で復讐することを止めてくれた。イスラエルの神、主は生きておられる。主は、わたしを引き止め、あなたを災いから守られた(3334)前章でも、主が選んだサウルの命を尊重して、手をかけない道を選んだダビデでした。自ら報復せず、主の御手に委ねた彼にとり、ナバルへの報復は、危うく彼自身の信仰的な決断に反するものでもあったのです。アビガイルはそれを思いとどまらせました。「平和に帰りなさい。あなたの言葉を聞き入れ、願いを尊重しよう(35節)」と語るダビデですが、彼自身もアビガイルに信仰を守られたと言えるでしょう。

3.迷うこともある信仰者の理想像

ナバルは敢え無く命を落としました。人の死は主の御手の内にあります。「ナバルは意識を無くした(37)とあります。推察するにダビデがうち滅ぼすために、近くまで進軍していたことや、従者の一人がアビガイルに訴えたことなど、もろもろのことが心に突き刺さったのでしょう。ナバルの末路は哀れですが、神の摂理を無視する者は、死の意味を問うことすらできない、虚しさのなかに朽ち果てていく恐ろしさを垣間見る思いです。

アビガイルの決断は、自己保身を願う私情からのものではなく、神がダビデを王として選んだ事実を尊ぶものでした。また多くの従者を養っていればこそ、ナバルの牧場を滅ぼすわけにはいきませんでした。双方の平和のために身を尽くした姿が記されています。ダビデとアビガイルの会話には、常に主なる神が意識に高く触れられています。だからこそ、この二人の出会いは豊かに祝福されました。復讐を思いとどまらせていることがテーマになっているところは、前章から引き継がれているように思われます。これも王となるダビデが信仰的な寛容と忍耐を学ぶための養いの一つであったとも読み取ることができます。

(まとめ)聖書事典などを紐解きますと、ダビデは「メシア(キリスト)の原型」と紹介されることがあります。たしかに弱い人を守り、信仰的な言動を貫くダビデの姿は、忍耐のなかで神の摂理を待ち続けた人として理想的です。しかし彼自身には人間としての弱さもあり、迷いもありました。王として油注がれ、召しだされてからは一層責任を負いながら、決断をしなければなりませんでした。試練に遭うとき、御言葉に立つ信仰者からの助言は天から遣わされる助けです。危うくナバルを己の手で始末してしまいそうになったダビデに、信仰的に見通すことのできるアビガイルが遣わされたのも、神の御心によるものです。人は一人で生きることは出来ないという真実を、聖書は繰り返し語ります。わたしたちは一つの群れとして召し出されていますので、周りには信仰に満たされた良き助け手が沢山与えられています。交わりの恵みに大いに感謝して、忍耐しながら神の時を待つ信仰を養われていきたいと願います。

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