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5月2日祈祷会 サムエル記上第23章

ダビデには次から次へと試練が訪れますが、その中で信仰は養われ、人が集まるようになり、王としての自覚が備わってきました。前章では、生き残ったアビアタルを守ることも約束しています。弱さのなかにある人を守る王の姿が現れはじめたダビデは、ますます主と共に歩む王へと導かれていきます。

1.御声に従いケイラ救出、そして脱出

 

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ビデによって一つの町が救われます。ケイラという町は地図にもあるように、ペリシテに近いイスラエルの穀倉地帯でした。ケイラの危機は、イスラエル全体の食料にも関わる危機です。ダビデは主に託宣を求めました。ところがダビデの兵は、自らの力を弱いと思っています。「我々はここユダにいてさえ恐れているのに、ケイラまで行ってペリシテ人の戦列と相対したらどうなるでしょうか(3)」。彼らはダビデのもとに数多く集まったとはいえ、もともと弱さを覚えているものたちでした。彼らがペリシテと戦うことを恐れることは無理もないことです。ダビデは再び、託宣を求めます。兵たちの恐れをいったん受け止めて、本当にペリシテとの戦いが成功するかどうか、確かめているところにはダビデの慎重さが表れています。ダビデ一人の信仰であれば、主の託宣に疑いの余地はなかったことでしょう。しかし彼はもはや一人で事を進める立場ではありせん。兵たちの恐れを受け止める冷静さも備わっています。

再び聞こえた主の託宣は、変わらずに「ケイラを救え」というものでした。これを聞き、ダビデと共に立ち上がった兵たちは見事にペリシテを破り、ケイラを救うこととなりました。ダビデたちの戦いは、弱さにあった人たちに御言葉が降り、他者を守り救う立場に新しくされたことを示すものです。主なる神が、人を救うために、すでに救われた人を用いるという大きな流れは、これまでも見てきたとおりです。「自分自身と教えとに気を配りなさい。以上のことをしっかりと守りなさい。そうすれば、あなたは自分自身と、あなたの言葉を聞く人々とを救うことになります。(一テモテ4:16)」。自分だけでなく、他の人々をも救いに招く神の御心は、キリストの福音により教会において果たされる務めとなりました。

さて、ケイラにとどまるダビデたちのことがサウルに知れるところとなりました。ダビデは三度、主の託宣を求めます。ここでダビデは、二つのことを尋ねています。「サウルはケイラに下ってきますか」「ケイラの有力者はわたしたちをサウルに引き渡しますか」。これに対する答えは「下ってくる」「引き渡す」という厳しいものでした。ただちにダビデたちはケイラを立ち去り、再び荒れ野をさまようことになります。

「サウルが襲って来て、助けた人たちに裏切られる」という託宣は、現実の厳しさを告げるものです。危機的な状況を予告する言葉は耳にしたくないですが、ますます事態を悪化することを食い止めるためには、現実を受け止めて、正しく認めることも信仰の大切な在り方だと思います。その積み重ねが、試練を打開するための機会を捉えることにもつながるでしょう。「どう足を進めるかをよく計るなら、あなたの道は常に確かなものとなろう。右にも左にも偏ってはならない。悪から足を避けよ(箴言5:26,7)。ダビデがそのままとどまっていたら、ケイラの人たちはダビデを匿うか、サウルに味方するか、難しい選択を迫られていたでしょう。主の託宣のとおりにダビデたちは立ち去ったので、ケイラは戦場にならずに済みました。

2.ヨナタンの奨励が伝えるサウルの悲惨

試練が続きますが、このようなときこそ、変わらずに味方でいてくれる真の友の存在が喜びとなります。ヨナタンが荒れ野にとどまるダビデの元に来てくれました。彼の励ましは、「神に頼るように」との信仰に満ちたものでした。そしてヨナタンは不思議なことを語ります。「イスラエルの王となるのはあなただ。父サウルも、そうなることを知っている(17)」。これは深い洞察に満ちた言葉だと思います。ヨナタンは父サウルの近くにあって、彼の不条理な怒りをも目の当たりにし、王として務めが破たんしていることを知っていました。それを引き起こしているものは「自分が王に相応しくなく、ダビデこそ王に相応しい」事実を認められない苦しみによると見抜いたためでしょう。この言葉が、「神に頼るように」という励ましの言葉を根拠のある力強いものとしています。

ヨナタンの洞察を裏付けるように、サウル王の振る舞いはまったく実りをもたらしません。本来、王であるサウルにとって、ペリシテから穀倉地帯であるケイラを救出することは、王であるサウルの最優先の義務でした。しかしケイラの危機の知らせはサウルのもとにきていませんし、ダビデがケイラを救ったこともサウルは無視しています。7節の「神がダビデをわたしの手に渡された」との言葉は、事実誤認もはなはだしいものです。

19節以降では、ジフに住む人々がダビデの居場所を密告します。そして21節でも再び、主のことを軽々しく持ち出すサウル。「わたしを思ってくれた」と言うところは皮肉な言葉です。たしかにジフの人々は神のことを思わず、人のことを思っているからです。サウルがケイラやジフにおいて、軽々しく神の御心が自分のほうにあると思い込んでいる言動は、「主の御名をみだりに唱える」ことの典型的な例と言えるでしょう。自分にとって都合のいい状況を勝手に解釈し、御心を謙虚に聞けない姿が極まっています。

(まとめ)ケイラを救ったかと思えば立ち去ることとなり、ホレシャにおいても居場所を密告されるダビデたちには試練が続いています。しかしサウルは、ダビデにこだわるあまり、王としての働きをまったく放棄しています。ケイラ救出を怠っただけでなく、住民を危険な目に会わせようとし、密告に耳を貸し、ペリシテの侵入によって、事を果たせず時間と労力を浪費しています。試練のなかにありながら、神の救いの御業に仕えるダビデたちの行いは良い実を結び、サウルのなすことは、無為のうちに終わっています。

教会は弱さを知る人たちが主の御言葉に招かれるところ。ダビデたちも救いを求める人がまず救いを確信し、次に他の人々を災いから守り、救いに導く光栄ある役目に導かれていきます。「自分と同じように人を愛する」自他ともに、命の利益となることに召されていきます。伝道は、悩める魂を思いやり、キリストに頼る救いを、心をこめて祈り願うことから始まると思います。パウロはこのように語って伝道に出かけていきました。「わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りとはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです(一コリ917)

(祈り)福音を知った喜びの群れを、あなたの御業のために、イエス・キリストの名のもとに、一つの働きとして用いてください。

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