5月23日祈祷会 サムエル記上第26章
サウルの命を見逃すところは、第24章と似たような展開に感じられたのではないでしょうか。しかしまったく同じではありません。聖書には似ているように思える箇所がたくさんあります。それらを比べて読み、違いを見出しながら意義を深めることができます。青年会では「青少年のためのキリスト教教理」を読み進めています。先月は「聖書はなぜ66巻か」という問いに取り組みました。その理由は一言では言えませんが、このように要約されていました。「旧約39巻、新約27巻によってイエス・キリストが救い主であると証しすることを、神がのぞんでおられます」。
聖書のそれぞれの書物にしても、箇所にしても、ばらばらに読んでしまえば、意義が見出せなかったり、矛盾が気になったりするところがたくさんあります。そのような時は、「イエス・キリストの証しという聖書の中心に向かって、筋道が豊かにある」と受け取り、さまざまなところから、福音に与ることができる読み方を大切にしたいと思います。小見出しは「ダビデの寛大さ」をまず表記していますが、語られていることは、それだけにとどまらないことに注目していきたいと思います。
1.違いに気づくため同じところを確かめる
①居場所を密告されてはじまります(1節)。サウルに追従するものたちは後を絶ちません。サウルにおもねる人たちは、ダビデの正しさや優れた賜物を無視しています。彼らはなにが正しいか、だれが正しいことを行っているか考慮せず、すでにある支配構造に追従しています。②荒れ野にダビデを追い求めるサウル(2節)の姿はこれまで通りです。優れたものが去って行った憎しみ、不安が引き続き示されています。サウルはダビデの正しさや優秀さを認めているからこそ、手元から離れて行ったことが認められません。③部下が殺そうとし、ダビデが思いとどまらせています(8節)。④証しとなるものを持ち帰っています。(11節の「槍と水差し」)。⑤サウルは、ダビデの声にすぐに自らの過ちを認めます(21節)。
このように確かに同じ展開のように思えるところです。かつて第24章をもとに、第26章は創作されたと合理的に考える人たちがいました。彼らは同じ展開であれば、テーマも同じだから、重要視する必要がないと考えます。しかし違いに目を向けない読み方は大切なテーマを読み落とします。イエス・キリストについて書かれた四つの福音書も同じような内容がありますが、そこには必ず違いがあります。その違いのなかに、そこでしか語られない福音に至る要点が隠されています。聖書には、神様が福音を伝えようとするにあたり、意義を見出すことができないところはないのではないか、と考えながら読んだほうが、新しい発見をする喜びを与えられると思います。
2.異なっているところ、新しいところ
それでは、異なっているところはどこでしょうか。①ダビデも斥候を出して、サウルの陣に近づきます。24章では洞窟に逃げ隠れていたところにサウルが入り込んできましたが、今回はダビデから積極的に近づきます。②24章ではその他大勢だった家来たちが、名前で記されています。ヘト人アヒメレクと、ヨアブの兄弟、アビシャイ。ヘト人は協力的な異邦人としてこれからも登場します。ヨアブもアビシャイも新王朝ではダビデの重臣として名を遺します。またサウルの側は、アブネルという人物がいました。この人は軍司令官としてこれからも登場するようになります。ダビデとサウルの部下たちも登場していることは、彼ら二人の確執が、次世代にまで影響を及ぼしていることを伝えようとしています。③24章よりも、サウル殺害を思いとどまらせるダビデの言葉が明確になっています(10節)。はっきりとサウルの行く末を予告しています。信仰的経験を通して、ダビデの認識が明瞭になっているように思われます。持ち帰ったものにも表れています。「槍」と「水差し」、戦うために必要な武器と生きるために必要なものを取り上げることで、「上着の切れ端」より説得力のある物証を手に入れています。④「主から送られた深い眠り(12節)」。ダビデの行いも、サウルの振る舞いも、主の見守りのなかで進んで行きます。ダビデやサウルの人としての個別の言動を記すことが目的ではなく、彼らの言動が聖書に記されることを通して、神が中心となって語られています。⑤ダビデはサウルではなく、アブネルに呼びかけ、落ち度を叱責しています。⑥サウルが過ちを認めるところは同じですが、「戻ってこい」と言っています。ダビデに帰ってきてほしいという本音が吐露されています。⑦最後の結びです。24章では、ダビデがサウルに子孫の保護を誓っていました。本章では、サウルがダビデの繁栄を祝福しています。このように異なる点のほうを多く見出すことができました。異なる点からはダビデの成長、次世代への転換点、サウルがダビデを祝福する変化など大切な要素を見出すことができます。
3.異なる点から聞き取る新しい御言葉
さきほど触れたように、聖書を研究する人たちのなかには、第26章は第24章をもとにして創作して書かれたものだと主張する人がいました。しかし異なる点が多く、しかも伝えている内容は大切なところです。決定的な点は、前章の第25章の影響を受けているところです。前章もダビデが報復を思いとどまるところでした。その役目を果たしたのはアビガイルという女性です。10節、23節、24節はアビガイルの信仰の影響を受けています。ダビデは24章で、「報復は人がすることではなく、神がすることである」という点に気づいてはいましたが、迷いが残っていたのでナバルには報復しようとしました。しかしアビガイルが報復を思いとどまらせたことで、自分の判断が正しかったことに勇気と新しい見解を得ることができました。ダビデが第24章、25章と経て成長し、26章で新しく確信をもって振る舞っていることは、信仰者の交わりが互いの信仰を助けることを示すものです。
わたしたちは、教会につながって互いに交わり新しくされていきます。聖霊降臨祭を迎えて、わたしたちは一つの霊を与えられていることを確かめました。代々の教会は聖霊の降臨を大切にし、繰り返し礼拝してきました。また「父より出で、子からもまた出でたる聖なる霊を信じます(ニカイア信条)」と告白してきました。主を共に信じるわたしたちには、それぞれの違いもあります。信仰について異なるところに気づいたときがあれば、それを分かち合い、交わりのなかで新しくされていきます。教会にはつながらず、一人で聖書を読んで、祈る道を選ぶ人たちもいますが、信仰の伸びしろは小さいでしょう。異なる点を拒むのではなく、そこから新しい御言葉を聞くことは恵みです。教会は、多くの人に与えられた信仰を、一つの霊のもとに豊かに健全にしてくださる場です。「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ(ヨハ15:5)」。
(祈り)聖なる一つの霊よ、あなたがわたしたちに宿ってくださいました。多くの人を招き給う教会につながりながら、互いの異なるところを主の豊かさを受け取り、ますます豊かな実を結ばせてください。
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