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5月30日祈祷会 サムエル記上第27章

これまでも触れてきたように、聖書には理解しがたいことも隠さずに書かれてあります。それにしても短い本章に記された内容は理解に苦しむものです。ダビデがしていることは、敵地ペリシテへの逃亡、殺戮、そして虚偽の報告。信仰生活の模範として読み取れるところはないと言って差し支えないと思います。しかし理解しがたいところだからこそ、神様は既存の考え方を乗り越えた深い人間理解にわたしたちを導こうとしておられると言えるのではないかと思います。大きく二つの視点を用いて読んでまいります。一つは、神様の視点です。二つ目は、ダビデの難しい境遇に寄り添うこと。人の視点です。

1.敵地ペリシテへの決死の逃亡

「ダビデは心に思った」との一言から始まります。一人で逃亡していたときは身軽にどこへでも逃げることができましたが、いまや600人の兵とその家族を守る身となりました。最善を尽くすために慎重に考える必要があります。あたかも誰かに語り掛けるように考えています。ヘブライ語の表現は「自分の心に語りかけた」というものです。

再びアキシュのもとへ逃れています。この人物は第21章にすでに登場しています。ペリシテは、いくつかの有力な豪族の連合国家でした。アキシュもその一人です。5節ではアキシュへ丁重に庇護を申し入れます。ペリシテにとっては、ダビデはたいへん優れた人物として評価されていました。味方として心強いが、あまり近すぎると恐ろしい。そんなペリシテ領主アキシュの心境をダビデは察しているかのようです。首都から離れたツィクラグに定住することとなりました。

敵であったペリシテの傭兵となったダビデたちは、アキシュの信用を得るために務めを果たしていきます。8-10節では、ダビデが実際にうち滅ぼした異民族と、報告されている内容が違います。ダビデはペリシテと無関係の異民族をうち滅ぼしては、「ユダのネゲブ(固有の地名というよりは「南方」という意味)を」と言って、それらがイスラエルの領内にいる部族だと偽って報告していました。異民族の殺戮と虚偽の報告。敵地ペリシテのなかに、ようやく与えられた安住の地を守るため、「これがダビデの策であった」と記されています。

2.王国のはじまりとしてみるダビデ一行

サウルから命を狙われてきたダビデたちですから、敵地への逃亡はまだ理解できます。しかし異民族とはいえ殺戮を繰り返し、身元を保証するアキシュへは虚偽の報告をしているところに、わたしたちが見倣うべきところはないと言えるでしょう。

さて神様はダビデたちを用いてなにをなさろうとしているのでしょうか。同じくペリシテ領内に逃げたときの21章と比べてみます。このときは「気がふれたように」装い、ペリシテにもいることができず単身逃げ続けるばかりでした。自分の身だけを考えれば良かったので、狂人を装うという判断がついたのでしょう。しかし今回は兵士も家族も養う身となったダビデです。守るべき人のために、信用と領地を得て安住するたえに、さらに高い判断を迫られています。その結果、ペリシテの領土のなかで領地を得ることとなりました。

このツィクラグを獲得した記事は、いわゆる「原因譚」と呼ばれるものです。後世に読む人たちが、今に続いている事柄の理由をしるためのものです(6)。ツィクラグは、のちの南ユダ王国の基礎となっていきました。

しかしツィクラグの獲得は、たんなる原因譚以上の意味を持ちます。ダビデたちの共同体は、すでに国のかたちを創り始めていました。指導者がおり、神のために戦う兵士がおり、家族がいます。神の導きによって共に生きていく神の国のはじまりと言えます。群れがようやく立ちはじめたところで、まわりは信仰を同じくすることができない人々ばかりです。共同体を導くダビデには、神に召されたものとしての自覚がありました。神に選ばれたものが、使命をたやすくなげだすわけにはいきません。自己の決断のうえに群れを導く神への信頼を寄せているからです。

聖書のみを大切にしようと福音的な教理を語った宗教改革者は、多くの人が捕らえられ、異端として処刑されました。しかし逃げ延びて、見知らぬ土地で生活しながら福音を伝え続けた人たちもいました。神の証しのために殉教することは讃えられるべきことかもしれません。かたや逃亡することは勇気がないように思えます。殉教と逃亡は正反対に思えますが、神がここぞというときにキリストの証しのために命を召して用いるという点においては同じであると考えられます。死ぬことも生きることの延長にあるならば、生き延びて、神の国のために最善の努力を尽くすことは、召されたことの恵み深さを思えばこそ選ぶことのできる道ではないかと思います。

見知らぬ土地で大いに用いられ、敵の領土内に王国の基礎を築く。神様の人知を超えた御業です。12節「いつまでも、わたしの僕でいるだろう」とアキシュは楽観的に言いますが、とんでもない!はじめから、ダビデの群れは主なる神だけの僕たちだったのでした。

3.深い人間理解の養いのために

もう一つ、大事なテーマはダビデの辛さに寄り添うことだと思います。自分だけでなく家族、兵たち、その家族も守られなければならない、難しい駆け引きを迫られています。殺戮と虚偽の報告をする姿は、わたしたちからしてもにわかに賛成できません。このようなとき、本当に苦しいダビデの立場になって読み進めることが一層、大切になってくるでしょう。

人生のなかで複雑に絡み合う日常を生きるわたしたちには、複合的な原因から生じる出来事に対応を迫られます。簡単には善悪の判断をつけられません。本当に辛い境遇に追い詰められている人を傷つける言葉は、「なんでそういうことをしたんだ」という批判だと教えられました。とくに心が疲れてしまっている人は、心ではわかっていても、行動が結びつかないということに苦しんでいます。追い詰められて、逃げ道を見失っているかもしれません。わたしたち教会は、追い詰められている人たちにとって「逃れの町(民数記35)」となる働きももっていると思います。「たいへんでしたね、辛かったですね」と理解する一声が、心に平安をもたらすことでしょう。すでに関わりをもっている人にも精神的に追い詰められている人がいるかもしれません。十字架の御許にしかない平安へお招きするために互いに労りあう群れへと導かれれば、おのずと伝道の道は開くのではないでしょうか。

聖書は人の理解の限界を広げ、神と人を深く知る人へと養うものです。改革派の神学者カルヴァンは「神認識と自己認識は結びついている」と語りました。聖書は「まことの神であり、まことの人である」イエス・キリストの証しを、現在を生きるすべての人に語り、真実に生きる道へと導こうとしています。聖書をより豊かに知るために、信仰によって聖書を愛し、熟読した先人たちの遺産を受け継ぐことも神の御心だと思います。教理の学びは聖書以上に難しく思えるところもありますが、聖書の理解を深める手助けになるものです。信仰を深め、伝道のために神様が与えてくださった賜物として感謝したいと思います。

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