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5月9日祈祷会 サムエル記上第24章




ダビデはサウルから逃げ惑う試練の経験をもとに、いくつかの詩編を遺しました。本章で起きた出来事は、詩編第57篇に歌い込められています。「わたしの魂は屈み込んでいました。彼らはわたしの足もとに網を仕掛け、わたしの前に落とし穴を掘りましたが、その中に落ち込んだのは彼ら自身でした(詩編574)密告する者たちによって命を狙われてきたダビデたちでしたが、その報いを受けたのはサウルであったことが歌われています。ダビデたちが潜んでいた洞窟にサウルが一人で入ってきました。ところがダビデはサウルに手をかけることをしません。

1.兵たちの助言に悩むダビデの胸中

前章は、ダビデに追いすがっていたサウルがペリシテ来襲の知らせをきいて本国に引き返したところで終わっていました。事柄は前章から続いています。エン・ゲディは死海の西岸にあります。人の寄り付かぬ荒れ野です。サウルの本拠地ギブアから片道50kmほどの旅路です。三千人を連れてそこまでいくだけでも、日数を費用がかかったでしょう。密告を受けて躊躇なく出撃するサウルは、ダビデを取り除くことに心を奪われています。いまだに王としての本分を見失っています。

前後の見境なく悪事に手を染めるものが報いを受けることは、引用した詩編が歌っている通りです。サウルのほうからダビデの手の内に堕ちてくることになりました。ダビデたちにとっては逃亡の旅を終わらせるための千載一遇の機会です。前章で苦しい状況が続くダビデが、なおも主の託宣に耳を傾け続けたのは、事態が良くなるまで忍耐を重ねていたからでした。「主があなたに、『わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。思いどおりにするがよい』と約束されたのは、この時のことです(5)と助言する兵たちは、共に苦しんできた仲間です。説得力があります。しかしダビデはサウルに手をかけません。ひとまずサウルに近づくダビデが、「上着の端をひそかに切り取った」だけに終わっているのは、ダビデの迷う心を良く示しています。彼は上着の端を切ったことすら、「後悔」しています。サウルに害意を抱いたことへの後悔のように聞こえますが、心情の微妙な違いが次の節に現れています。兵に言った。「わたしの主君であり、主が油を注がれた方に、わたしが手をかけ、このようなことをするのを、主は決して許されない。彼は主が油を注がれた方なのだ(7)これは、ダビデがサウルをどのように考えていたかよく現れているところだと思います。サウルという一個人の在り方ではなく、神の選びの尊さの前に勝手な判断を控える慎重さが表れています。この判断は、サウルだけのことではなく、ダビデ自身も油を注がれ選ばれたものであることを尊重しています。もし、ここでダビデが手をかけていれば、ダビデ自身の選びの尊さも地に堕ちたことでしょう。なぜならば、主の尊い選びを人間の判断の手の内に落とすことになるからです。

2.サウルを赦し回心に導くダビデの言葉

ダビデは顔を地に伏せ、礼をして、主が選んだ人への敬意を失いません。「今日、主が洞窟であなたをわたしの手に渡されたのを、あなた御自身の目で御覧になりました。」これはヘブライ語独特の時制表現です。サウルが事態の重要性を認知していなくても、一部始終を見ていたことには変わりません。ダビデは事柄の真相を打ち明けて、サウルに訴えます。わたしは上着の端を切り取りながらも、あなたを殺すことはしませんでした。ダビデは上着の端を切り取ったことを後悔しましたが、上着の端は「殺害しようと思えば出来た」ことへの説得力のある証しとなりました。「主があなたとわたしの間を裁き、わたしのために主があなたに報復されますように。わたしは手を下しはしません。」このダビデの告白は、新約の兆しと言える重要な証言です。旧約ではしばしば報復が肯定されている箇所があります。しかしイエス・キリストが「敵を愛しなさい」との御言葉を、十字架の赦しのもとに成し遂げられました。赦された者の一人、パウロは「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。と語ります。 

ダビデの滔々と説く真実の申し開きと赦しの言葉は、サウルから悔い改めの言葉をひきだしました。「お前はわたしより正しい。お前はわたしに善意をもって対し、わたしはお前に悪意をもって対した。サウルの口からこの言葉が出たことは価値のあることです。自分の過ちを正しく認識する言葉が、魂をまことの悔い改めに導く事始めになるからです。

3.回心への忍耐、最後は主の裁きに委ねる

本章は信仰的に判断することの難しさを感じるところだと思います。試練のなかで密告されてきたダビデと兵たちです。サウルを除けば、試練から抜け出すことができたかもしれません。しかしダビデはサウルに手をかけませんでした。しかもダビデの言葉を聞いてサウルは回心の兆しを見せますが、結局サウルの末路は悲惨なものになっていきます。

ダビデの正しさは、サウルを主に選ばれた人として尊び、裁きを神に委ねたところにあると思います。結局は心からの回心に至らないサウルですが、ダビデの正統性をサウルの口から語らせるところには、価値を見出すことができます。選びを信じて最後の決断は神に委ねるダビデの姿は、信仰を規範として人に接するわたしたちを励ますものです。人との関わりのなかで判断に迷ったら、裁きは主に委ねて“赦す”方へと道を選ぶことができれば、心を平安に保つことができるのではないでしょうか。

(まとめ)改革派の特色の一つに「予定論」というものがあります。これは「救いの予定から漏れた人は絶対に救われない」点が拡大され、しばしば誤解されて語られることがあります。しかし改革派の神学者カルヴァンは『キリスト教綱要』で次のように語っています。「我々は、誰が予定の数に属するか属さないかを知らないのだから、統べての人が救われるものと看做すのが相応しい。だから我々は、我々が出会うどんな人に対しても我々と同じ平安に与るよう努力すべきである。しかし我々の平安は平安の子の上に留まるであろう(323-14)。」神が救いへと招いた人に対して「あの人は救われることはないだろう」と決めつけてかかることは、控えなければならないことを示していると思います。主がなにをなさるのかは最後までわかりません。わたしたちは明らかにされたところと、まだ明らかになっていない境目を弁えながら、為すべきことを忠実に行う平安に与りたいと思います。「主の僕たる者は争わず、すべての人に柔和に接し、教えることができ、よく忍び、反抗する者を優しく教え導かねばなりません。神は彼らを悔い改めさせ、真理を認識させてくださるかもしれないのです。こうして彼らは、悪魔に生け捕りにされてその意のままになっていても、いつか目覚めてその罠から逃れるようになるでしょう(第二テモテ2:24-26)。」様々な人々と向き合いながら伝道するなかで、裁きは主に委ねるダビデの信仰的な判断を、手本に置きたいと思います。

(祈り)伝道における判断の難しさがあります。御手に委ねる平安を伝えながら、信仰の証しを重ねていくことができますように。

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