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(再録)2017年9月20日祈祷会士師記第8章18-25節

「 人間、ギデオン 」

 士師ギデオンの活躍を、第六章から読んできました。マナセのなかでも貧弱な家の生まれで、もっとも年若いと自ら言っていたギデオンに、神様からの士師としての選びがありました。彼の人生はもっぱらミディアン人の抑圧からイスラエルを助け出すことに用いられます。先週のところまでで、ギデオンを通して示された主なる神様の御心は、成し遂げられました。イスラエルは、また救われたのです。

 今日のところは、ギデオンの士師としての最後の務めと、晩年について語られていました。一読して、「おや?これが大士師とも言われた立派なギデオンの最後なのか」と、意外に思われたかもしれません。士師として御心を果たしたギデオンだが、どうも晩節を汚しているように読めます。なんとなくすっきりしない、もやもやっとした感じが残る最後です。

 じつは、ここに旧約聖書を読むときの、わたしたちがとるべき姿勢の、大切な要素の一つがあります。この「もやもやっとしたすっきりしないところ」。ある先輩の牧師の言葉を借りれば、「旧約聖書は人間のあるがままの姿を映し出す。だから、わたしたちもあるがままに読む態度も必要。ほかの宗教の聖典と違うのは、人間の欲深さ、中途半端さ、いい加減さ、罪への弱さを赤裸々に残しているところ。もし、聖書から人間の気持ち悪いところ、目を背けたいところをこそぎ落としたら、うすっぺらな書物が出来上がるだろう。旧約聖書はとくにそうです。」

 ギデオンの晩年を読み飛ばすことなく、丁寧に読みたいと考えたのは、ここに、士師という神さまの御心を果たした人物ですら、罪の問題が最後まで残ったところが記されているからです。

 18-21節。肉親の報復を行うギデオンです。しかも、その処刑を、息子にさせようとしています。18節によれば、タボルでギデオンは、ミディアン人の王、ゼバとツァルムナに兄弟たちを殺害されたことになっています。これは、聖書のほかのところには参照できない箇所で、読者はこの18節から、「ああ、そういうことがあったのか」と受け取るよりほかありません。19節で、「もしお前たちが彼らを生かしておいてくれたなら、お前たちを殺さないのに」と言っているのは、士師として処刑の理由を明らかにしているところと読めます。

しかし、この裁きはたいへん微妙です。というのも、律法に忠実に従えば、ゼバとツァルムナの処刑理由の根拠は、「異教の神々を拝む王たちだから」ということで、十分だからです。19節の理由がもし律法として上位にあるならば、ゼバとツァルムナがもしギデオンの兄弟を殺さなければ、処刑されなかったことになります。ギデオンの士師としての裁きに、家族を殺害された怨恨が入っているようにも受け取れます。

 しかも驚くべきは、ギデオンは、その処刑を若い息子にさせようとしていることです。これも、根拠となる律法がありません。しいて言えば、スパルタ的な教育を施そうとしたのか、それともギデオン自身が、彼ら二人の王を手にかける自信がなかったのか、わかりません。21節の二人の王の言葉を信用するならば、ギデオンには、直接手にかける勇気がなかったのでしょうか。二人の王に、「さあ、やるなら、ひと思いに、自分でやれ!」とけしかけられるようにして、自ら斬りました。そして、彼らの三日月形の飾りを奪っています。これは、かつてヨシュア記第七章でアカンという男が、滅ぼしつくすべきエリコの財宝を、内緒にして自分のものとしたことと照らし合わせると、どうでしょうか。もし、律法に忠実に従うなら、ギデオンはたちまちここで死ぬべきです。

ギデオンの人間的な姿が赤裸々になってきました。さきに22節と23節のやりとりは、あとで振り返ることにして、さきに24節から27節までをみておきます。ギデオンたちが戦ったミディアン人を中心とする連合軍には、イシュマエル人が加わっていたようです。イシュマエルといえば、アブラハムのもう一人の妻、そばめのハガルとの間に生まれた、イサクの腹違いの弟、イシュマエルの子孫です。のちの砂漠の民ベドウィン、アラブ人の先祖とも言われます。彼らは耳輪をしていました。これをギデオンは、どう見ても私物化しています。それを用いてエフォドを作りました。

Up_3 このエフォドは出エジプト記第28章などで、神様が作らせた大祭司の祭服、礼拝のときに着用する服です。大祭司しか着用してはいけないものを、ギデオンは私物化した金の指輪で自分のために作り、自分の町オフラに置きました。これによって「姦淫にふけることになった」と。文字通り性的に乱れたと読むこともできるし、あるいは主なる神様に背いて、勝手な祭儀を行ったとも読めます。いわば、ギデオンが中心となる新興宗教「ギデオン教」みたいなものをはじめたと考えることもできます。いずれにしても、「罠」とある以上、主なる神様への一途な思いが損なわれたことは確かです。

 29節から32節には、ギデオンの最晩年と死が語られました。彼は多くの妻をもち、七十人も息子をもうけています。そして、なぜかそばめに生ませた一人の息子、アビメレクだけ、名前が明らかになっています。まるで王様のような姿です。「このころは、一人の夫に一人の妻、つまり一夫一婦制はまだなくて、一夫多妻が認められていた」と、いって納得することは簡単です。しかし、ギデオンが妻をたくさんもって、子供をたくさんもうけるという姿は祝福されませんでした。1ページめくって、第9章をみてみますと、なんとこのアビメレク、一家の長となるために、命知らずのならず者をやとって、七十人の腹違いの兄弟を撃ち殺しているのです。このアビメレク、とんでもない息子です。ギデオンの女性に対するよく深さは子孫を不幸に陥れた、と言わざるを得ないところです。

 ここまで、あえて強調するようにして、士師ギデオンが晩節を汚したところをみてきました。やはりあらためて読んでみて「まさかあのギデオンが」という気持ちが残ります。いくつかの注解書を読んでみました。ど こかに救いのある言葉はないだろうか、深い解釈があるのではないか、道徳的な見解がないだろうかと期待しましたが、しかし、どの注解書もギデオンの最後に関しては、さじをなげるようにして、そのまま読んでいます。

 ここで思い起こしたのが、今日もはじめのところでふれた、先輩の牧師の言葉です。「聖書は人間のありのままの姿を映すから、むしろ現実的なのだ」。

 今日のところから言えば、22節、23節のギデオンの言葉を通して、いみじくも語らせています。わたしたちを治めてくれ、とギデオンに求めるイスラエル人に、「わたしはあなたたちを治めない。息子もあなたたちを治めない。主があなたたちを治められる」これは、信仰的に正論、正しい言葉です。そうでありながら、じつはギデオンはそのとおりに実行できていません。戦利品を私物化し、自分だけの祭儀をおこない、多くの息子を生んでのちのわざわいを招きます。「王にはならない」といっておきながら、王のようなふるまいをする点は、自己矛盾の極みです。この姿が、じつにのちのダビデ王朝の滅亡を招いた、歴代の王たちの姿をあらかじめ映しているようでもあります。それゆえ、バビロン捕囚以後の礼拝においては、やはり王は人を治められない。主なる神様こそが、わたしたちを正しく裁き、治めてくださるとの信仰が深まっていきます。

信仰的な言葉を語りながらも、現実にはそのとおりにできないギデオンの姿は、まことに人間的な姿を描きます。神様は、なぜギデオンにこのようにされたのでしょう。ここで「おい、ギデオン、おまえは士師として選ばれたのだから、ちゃんとしなさい」と、立ち返らせることもできたかもしれません。しかし、神様は、この晩節を汚す、矛盾にみちた大士師ギデオンの人生全体をもって選ばれました。それは、のちに聖書を読む私たちが、これを読んで、自分自身の姿のあり方を顧みて、あらためて主に立ち返る思いを起こさせるためでしょう。「なぜギデオンの晩年が、のちの災いを生むようなものばかりだったのだろうか」という問いには、こう答えることができるでしょう。「聖書を読む、のちの時代の人が、自分自身を知り、主なる神様に立ち返るため」、つまり、今読んでいる、わたしたちのために、ギデオンをこのように用いらえたと、いうことです。

 士師記第六章から、士師の中でもっとも分量を多くとってしるされているギデオンの人生をたどってきました。28節には、ミディアン人がイスラエルを抑圧することができなくなり四十年平穏無事だったとあります。これは、まぎれもないギデオンが士師として選ばれ、立派に役目をはたした結果です。反面、のちの世代に災いも残しました。まだまだ士師記のイスラエルの歩みは、あの背反から救いにいたるサイクルを繰り返さなければならないようです。そういった人間として、中途半端で、罪に弱い姿が、除かれることなく残っているからこそ、聖書は現実的な、わたしたちに与えられた主のみ言葉ということができると思います。だからこそ、わたしたちの救い主イエス・キリストが肉をとられた神の言です。立派なところではなく、破れ、欠け、弱さにこそ、救い主は来てくださるお方。旧約聖書でつくづくと人間の弱さを顧みて、新約聖書の福音で、弱さにこそ強さを発揮する十字架の主に立ち返る。そのように聖書を読みながら、一層み言葉を心のうちにお迎えしたいと思います。

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