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6月10日説教のポイント

「人は皆、素晴らしい」

聖書 創世記第38-19

       伝道師 三輪恵愛

1.人の「素晴らしくないところ」が記されている創世記での出来事

神様とのお交わりを喜ぶ礼拝です。言葉を交わしあう嬉しい時でもありますが、不安や緊張もまた感じる時です。「どこにいるのか」とアダムとエバを楽園に探す神様のまえから、「恐ろしくなり」二人は思わず身を隠してしまいました。木の実はたいへん美味しそうでした。手が止まらなかったのでしょう。「食べてはならない」と言われていたのに食べてしまったことが人類はじめての罪になりました。ささやかな罪です。しかし罪の軽重ではなく、そのために神の御前から身を隠すものとなってしまったことが注目すべきところです。「いけないと言われていたことをしてしまった」という心の痛みは、世俗の法では裁くことができません。ささやかな出来事だからこそ、むしろ神様のまえで感じてしまううしろめたさが際立つところです。

2.厳しい言葉のなかに語られる希望、罪を悲しむ人の創造へ

教会はこの出来事を伝統的に「原罪」と語ってきました。人類全体に神への不従順が伝わったという教え方です。伝統を引き継ぐ大切さは保ちつつ、しかしアダムとエバに語られているのは罪への報いなのでしょうか。産みの苦しみ、労働の苦しみ、そして「塵に返る」と言われていることは、いまのわたしたちの偽らざる現実の姿です。それ以上の裁きの言葉はありません。むしろ(罪との間に)敵意をおく(15)と語られる神様の言葉に希望の光が当てられています。人は罪に無防備で無邪気でした。誘惑に負けてしまいます。罪との間に敵意を置いてくださったことで、わたしたちは罪を悲しみ、赦しを望むものとされています。教会は創世記から、罪の痛みと共に、キリストによる赦しの尊さを語ってきました(ローマの信徒への手紙11:32,33)

3.「なぜ」ではなく「なんのために」へと、まなざしを未来に向ける

創世記は初めの書物なので、罪の起源として読まれます。しかしそれだけでは新しくされる喜びにまなざしを向けられません。罪にたいして「なぜ」を問うところから、聖書は「なんのために」と語り掛け、将来へとまなざしを向けさせます。楽園では守られてばかりだった二人に、命を用いて果たすべき目的を与えられました。その道すがら、心の痛みあり、罪の苦しみがあります。「どこにいるのか」との神の御声に身を隠してしまいたくなるときがあります。しかし母マリアがお腹を痛めて産み育て、父ヨセフと共に汗を流して労働された救い主が、わたしたちを憐れみ赦すために「どこにいるのか」と探し求める神の姿を示しているのです。神の深い知恵は天地創造の時より始まっていました。探し求められ、赦しへと導かれるほどに、人は皆、神様に素晴らしい存在とされていくのです。インマヌエル,ハレルヤ!

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