« 6月10日説教のポイント | トップページ | 6月17日説教のポイント »

6月13日祈祷会 サムエル記上第29章

この第29章で場面は再びダビデに戻ります。前章はサウルの死の前日のことなので、少し時を遡ることになります。ペリシテの領主の一人、アキシュに身を寄せているダビデはひと時、身の置き所を得ています。しかしペリシテに雇われているということは、いずれ祖国と戦うことにもなりかねません。ダビデとしては、どうしても避けなければならなかったことだと思います。ティクラグに領地を得た(276)あとも、イスラエル領を襲うことを避けてしました。サウルからは逃げたけれども、主なる神と祖国を裏切ったわけではありません。

1.異教のなかでも主がともにいる人

アキシュは連合国家ペリシテの有力な豪族の一人であったと思われます。いよいよイスラエルとの戦いとなり、彼から信頼を得て、「しんがり」つまり本陣の守りに配置されました。そこは軍の大切な部署です。ダビデの配置について、他の武将たちから不審の声が上がりました。「この男は帰らせるべきだ」「あのダビデではないか」。アキシュのもとでの働きを知らない彼らはダビデを全く信用していません。ダビデが勇猛果敢の人であることを覚えており、サウルに再び寝返ることも疑っています。これらのペリシテの武将たちの判断は正当なものです。アキシュは「彼はこの一、二年、わたしのもとにいるが、身を寄せて来たときから今日まで、わたしは彼に何の欠点も見いだせない(3)と執り成そうとしますが、受け入れられませんでした。

ところでペリシテの将軍たちは、ダビデたちのことを「このヘブライ人らは何者だ(3)と言います。ペリシテも含めて、周辺の異民族は、国となったイスラエルが、かつてはエジプトの奴隷に過ぎなかった頃を知っているので、あえてその時の蔑称である「ヘブライ人」と呼ぶことがあります。また彼らはダビデに対して恐れも抱いていました。かつてゴリアトを石つぶて一つで倒したあのダビデが、家来を引き連れて近くにいることは、彼らにとって穏やかなことではありませんでした。4節の「戦いの最中に裏切られてはならない」という彼らの言い方は、直訳すると「わたしたちにとってのサタンになられては困る」という興味深い表現になります。警戒心をもっているペリシテにとっては、ダビデたちはサタンのように恐ろしい存在でもあったのでしょう。ペリシテ人はかつて神の箱が領内に入ってきたときに手ひどい災いに見舞われました(サム上第6)。「ヘブライ人は弱いけれども、神を信じているので強い」というように、侮蔑と畏怖が入り混じった思いがペリシテの武将たちから伝わってきます。ここに、神に守られて信仰を保つ人たちが、異教の地で一目を置かれているような様子が窺えます。

聖書のほかの箇所でも、神の存在を受け入られないものは、恐れや侮蔑の態度を見せることがあります。イエス・キリストのお姿をみて悪霊たちは「後生だから近づかないでくれ(マルコ第一章他)」と叫びました。異邦人伝道をはじめたパウロは、アンティオケアに教会を建てますが、ここではじめて「クリスチャン」と呼ばれます(使徒11:26)。これは教会がローマ帝国領に増えていくなかで、「キリストを崇拝する連中」というほどの蔑称にもなっていきました。そして「この人たちはいったい何者だ」と奇異と敵意のまなざしを向けられ続けました。正しいものを信じる人たちは、恐れと敵意を向けられることもあると聖書は語ります。しかし弱さを神の御前に告白できる人たちの強さは、十字架によって確かなものとされています。いつの時代も神の証し人として選ばれ、神とともにいる人は信仰ゆえに注目され、証しを示す場を与えられることになります。

2.誠実な姿は異邦人にも好ましく映る

ペリシテの武将たちとは対照的に、アキシュはすっかり警戒心を解いています。「主は生きておられる。お前はまっすぐな人間だし、わたしと共に戦いに参加するのをわたしは喜んでいる。わたしのもとに来たときから今日まで、何ら悪意は見られなかった。(6)」。彼は決してなんでも信じてしまう凡愚な人物であったわけではなく、むしろダビデの振る舞いが異邦人であるアキシュの心にも良い影響をもたらしたのでしょう。アキシュにとっては、ダビデの姿は「神の使いのようであった」と言います。さきほどのペリシテの将軍たちが「サタンになられては困る」と恐れを露わにしたのとは、正反対です。

異邦人に対しても信仰の姿が心に通じることは、後の教会の歩みの中でも充分に証しされていきました。聖霊によって教会が導かれるようになって後、イエス・キリストの福音は民族の壁を乗り越えていきました。ペリシテの将軍たちとアキシュの対照的な態度から、神への信仰を拒む人にとってはサタンのように恐れられることがあったとしても、誠実さを愛する人には天使のようにみられるのが、神を信仰する人たちの姿なのかもしれません。そのように思えば、わたしたちがあたかも異邦人のなかで暮らすようなことがあっても、人の誠実さに語り掛ける意欲を奮い立たせられる思いです。福音という、すべての人にとって良い知らせを伝えているという平安が人の心に通じていくのだと思います。

3.平和に帰ることができた恵み

こうしてペリシテ軍を平和裏に離脱することとなったダビデたちでした。彼らの振る舞いは異邦人アキシュをして「主は生きておられる(6)と告白させました。結果として、生きておられる主から、ダビデには三つの恩恵が与えられています。①祖国イスラエルと戦わずに済みました。止むを得ずペリシテに身を寄せたダビデたちは、ここでペリシテから離れ、祖国に弓をひくことなく後方に去っていきます。②ペリシテとも戦わずに済みました。しばらく身の安全を与えてくれたアキシュとは心の交わりもあったと思われます。アキシュが他の武将たちからの反感を買って板挟みになることもなく、彼らとも戦わずに平和に去ることが出来ました。③アマレク侵攻に対応することになります。次章、ダビデが不在のときにアマレク人が攻め込むという苦難が生じます。もしペリシテの戦陣に加わったままで戦争がはじまってしまえば、容易に戻ることが適わなかったでしょう。ペリシテを離れていたがゆえに、救出に向かうこととなりました。

(まとめ)アキシュのもとに身を寄せるはじまりとなった第27章から、ダビデがペリシテ人の土地に住むようになってからの身の処し方が記されていました。「これがダビデの策であった(27:11)と彼が思いを尽くして採った道は難しい選択の積み重ねでした。そのような厳しい歩みのなかで彼の心を支えたのは、主への信頼と委ねられた人々への配慮だったと思われます。ダビデの姿を通して、神に召された人が救いの御業に用いられる姿を示していると思えるところです。信仰を与えられるということは、生涯で最も大切なものを主に委ねるという応答を伴うものです。そのため価値観が異なる社会のなかで、しばしば身の処し方に心を悩ませることがありますが、それも含めて主がご栄光のために用いてくださっていることを気づかされます。またその姿が、周囲にも「神の使いのようだ」と思わせる無言の証しが伝わると信じたいと思います。

« 6月10日説教のポイント | トップページ | 6月17日説教のポイント »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 6月13日祈祷会 サムエル記上第29章:

« 6月10日説教のポイント | トップページ | 6月17日説教のポイント »

フォト

カテゴリー

写真館

  • 201312hp_2
    多田牧師「今月の言葉」に掲載したアルバムです。(アルバム画面左上のブログ・アドレスをクリックしてブログに戻れます。)
無料ブログはココログ