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6月20日祈祷会 サムエル記上第30章

アマレク人がツィクラグを襲ったことは何の前触れもないことのように記されています。じつにアマレク人との関わりは、遡ることサムエル記上第15章、預言者サムエルがまだ存命のときのことでした。主の託宣がサムエルを通してサウルにくだり、アマレク人への聖絶が命じられました。ところがサウルは分捕り品を惜しんでアマレク人への戦いを途中で止めます。その結果、主なる神様への不服従をサムエルから裁かれ、サウルは王としての資格をはく奪されました。これ以降、サウルは狂気に捉われ、ダビデを追い回すことに心を奪われることになります。すなわちサウルの失脚と王国の混迷は、このアマレク人との関わりのなかで生じたものでした。そして今回においては、サウルがアマレクの聖絶を中途半端なものにしたことが、彼らにツィクラグに侵入する余力を残してしまったことにつながります。つまりサウルの御言葉への不服従の影響をダビデたちが被ったとも言えます。

1.ダビデに怒りをぶつける配下の兵たち

ペリシテ軍から離脱することができたダビデたちは平和にツィクラグに帰れるはずでした。ところが配下の家族も含めて、すべての人々をアマレク人に連れ去られてしまいます。

アマレクの侵入によって家族を連れ去れたダビデは指導者としての責任を配下に追及されることとなりました。一難去っての一難であり、しかも配下は「石で打ち殺そうと言い出し(6)はじめます。サウルに追われていたときも危機が続きましたが、これほど命を追い詰められたことはありませんでした。ダビデとしては逃避行における最大の危機です。

配下たちの怒りはもっともかもしれません。彼らはダビデの勇猛と寛容にほれ込んで集まって来た「困窮している者、負債のある者、不満を持つ者(サム上22:2)たちでした。そしてダビデの統率のもと、サウルからの追手から逃れつつ、力をつけていき、家族を持つほどに豊かにされてきました。ダビデに対する信頼は本来、篤かったと思われます。しかしながら、彼らはいつまでとも知れぬ逃避行、敵地での寄留、ペリシテ側に加わって祖国と争わなければならない葛藤など、緊張感が募る日々を過ごしてきました。ようやく家族のもとに帰れるとおもいきや、ツィクラグは「焼け落ち、妻や息子、娘たちは連れ去られていた(3)。約束されていた安堵が奪われたときの人の失意は計り知れません。ダビデへの篤い信頼は吹き飛び、怒りをぶつけることで気をはらすよりほかない、配下の兵たちのやるせなさが伝わってくるようです。

2.主に対する信頼が群れを一つにする

兵士たちの怒りもわかりますが、ダビデの困窮は彼らよりももっと深いものがあります。現場の指揮官であるダビデ自身も家族を奪われました。そこへきて配下に責任を問われ、これまでの歩みがすべて誤りだったのかと、自信を失うような局面です。「ダビデは苦しんだ(6)。しかしこれまでも見てきたように、ダビデの信仰は、すべてを奪われ、苦しみの底に置かれたときであっても主に頼る姿に現れてきます。この点において、彼は徹底して信仰者です。自分の責任にしても、無関係の責任にしても、苦難のときに主に頼ります。ここが、自分の判断と力で苦難を切り開こうとしたサウルとの対照的な点と言えます。

あの一人だけ生き残った祭司の息子、アビアタルに命じて、主の託宣を求めます。ここで苦難のなかにあっても主に歩むべき道を問う姿が、アマレク人との対決とそれ以降の歩みの起点とされています。アマレク追跡の可否を問うてはいますが(8)、本来は、選択の余地のない問いでもあります。というのも、ダビデ軍の実行部隊は温存されていましたし、ダビデ自身は勇猛果敢の人です。一も、二もなく追いかけるべきところでした。ダビデほどの知恵者であれば、いきりたつ配下を宥め、説得し、奮い立たせて、すぐに追跡することもできたでしょう。しかし彼は決して自分の決断には頼りません。彼は配下の悩みを受け止め、ともに苦しみ、そして主の御言葉を待ちます。

ダビデへの主の応えは心を奮い立たせるものでした。「追跡せよ、必ず追いつき、救出できる(8)との言葉に従ってアマレク人の追跡をはじめます。ダビデが指導者としての役割を忘れることなく、主の御言葉を待ってから行動を起こしたことは、ひとたび失われた配下の信頼を回復させたことでしょう。「ダビデと彼に従う600(9)は、再び主の御言葉のもとに一致を取り戻しています。

一つの目的に向かっていく群れは、救出の糸口を見逃しませんでした。エジプト人の奴隷を保護し、貴重な情報を引き出しています。主の御言葉を待たず、怒りにまかせ、慌ててアマレク人を追っかけていれば、一人の行き倒れを助ける心の余裕はなかったことでしょう。ダビデたちは行き倒れていたエジプト人奴隷を介抱することで情報を聞き出すことができました。アマレク人を捕捉したダビデたちは、彼らが「お祭り騒ぎ」をしているところに襲いかかります。油断しきっていたアマレク人は、御言葉によって奮い立ち、家族を救出する目的のもとに一致していたダビデたちの相手ではありませんでした。

3.苦しみも喜びも分かち合う群れとして

ダビデたちは無事に家族を救出し、しかも奪われた以上のものを手に入れることができました(20)。主の御言葉に信頼したダビデの振る舞いは、獲得したものを分配するときにも徹底しています。戦った兵は落伍した兵にも戦利品が与えられることに不平を言います。しかし後方にいて荷物を守ることも、前線が憂いなく戦うために大切な役目です。行軍中、200名の落伍者は「荷物のそばにとどまる(24)役目が与えられました。

群れは主の御言葉のもとに一つとされるとき、さまざまな役割と賜物を与えて、群れ全体としての実りを分かち合って喜ぶものとされます。このときダビデが「皆、同じように分け合うのだ(24)と信仰的に判断できたのも、「主が与えてくださったものをそのようにしてはいけない(23)と語るように、主の御言葉に聞いてから事にあたったからです。 さらにダビデは、これまでの長い逃避行を支えてくれた各地の長老への返礼を忘れません(2631)。神のもとに感謝をする信仰者は、交わりを篤くする人々同士の配慮も忘れません。神ご自身もイエス・キリストというお方をわたしたちに分け与えてくださるお方です。「喜んで与える人を神は愛してくださるからです。神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります(二コリ9:78)

(まとめ)苦しみの底にあったダビデは、主なる神様から道を示され、一致を回復し、さらに恵みを増し加えられました。この後、王国と王位の継承という高みにあげられることになります。ダビデの信仰の健やかさは、試練のときに苦しみながらも御言葉を待ち、冷静と理性を保ちつつ、最善の努力を果たしているところにみられと思います。ダビデの姿から、信仰とは、神様が必ず良いようにしてくださるという信頼と、自らがなしえることの領域で最善を尽くす理性のバランスうえに成り立つことを示されているように思います。 

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