6月27日祈祷会 サムエル記上第31章
イスラエル初代の王、サウルの最後が記されていました。第31章で閉じられるサムエル記上は、神の選びを告げる御言葉に対して、信仰者としてどのように振る舞うべきかが示されていると言えます。ダビデの歩みが苦難や試練が続いたように、主なる神様は御自分が成し遂げるご計画のために、ときには信仰者を苦難や試練のなかにおくこともあることが語られます。しかし神様はダビデを守り続けられました。一方でサウルは、御言葉に背き始めて後、自分の力に頼って生きる道を選びます。ダビデを苦難に陥れようとしますが成就しません。そして今回の章が伝えるような結末に至りました。選び取りたい結末は明白だと思います。ダビデのように信仰生活を歩みたいし、サウルのようにはなりたくないと思うことでしょう。み言葉への聴従の尊さをあらためて知るところかもしれません。
そうではありながら、サウルの最後は裁きの厳しさを伝える以上に、悲しみに満ちています。これも主の裁きだと受け取りたいと思いますが、同時にサウルの生涯全体を通して、聖書が語ろうとしていることが、その他にもあるように思われます。
1.ペリシテの脅威であり続けたサウル王
最後の戦闘が詳しく描かれているところから、ペリシテがサウル王の命を狙うにあたり、手を抜いていないことがわかります。3節「サウルに対する攻撃も激しくなり、射手たちがサウルを見つけ、サウルは彼らによって深手を負った」。サウルの武勇を恐れ、まず遠巻きに矢を射かけています。深手を負ったサウルは、自害を覚悟しました。これほどにペリシテがサウルを徹底的に追い詰めたのは、まだサウルがイスラエルの手強い王と看做されていたことを示しています。神に見放された王ではありますが、それでもなお異邦人と戦うイスラエルの王としての務めを果たそうとします。また7節「谷の向こう側と、ヨルダンの向こう側のイスラエル人は、イスラエル兵が逃げ、サウルとその息子たちが死んだのを見ると、町をことごとく捨てて逃げ去ったので、ペリシテ軍がそこにとどまった」とあるように、サウル王家の滅亡はイスラエル王国にとっての絶望に等しいものでした。
サウルが王として選ばれたとき、民は喜びました「『見るがいい、主が選ばれたこの人を。民のうちで彼に及ぶ者はいない。』民は全員、喜び叫んで言った。『王様、万歳』(サム上10:24)」。また武勇に秀でてイスラエル王国を守りました。「サウルはイスラエルに対する王権を握ると、(中略)ペリシテ人と戦わなければならなかったが、向かうところどこでも勝利を収めた。彼は力を振るい、(中略)イスラエルを救い出した(サム上14:47)」。イスラエルに待ちに待った王サウルは、最後の時を迎えるまで王国の希望の拠り所でした。ギルボア山で死ぬサウルは、神に遺棄された王でありながら、命の最後までイスラエルの王としての務めを全うしたことを証しします。
2.ヤベシュの人々の恩返し
御言葉に背くこともありながら、サウルが生涯のなかで王として相応しい行いも果たしていたことは、11節以降に示されています。ヤベシュの人達が、危険を犯して王たちの遺体を引き取り、丁重に葬ったと記されていました。第11章では、ヤベシュの人たちがアンモン人に囲まれ、「右の目をえぐり出す」と脅された事件が描かれていました。泣きながら救いを叫び求める彼らに、神の霊が激しく降ったサウルが遣わされ、アンモン人を征伐し、ヤベシュの人たちは救われます。「『明日の日盛りのころ、あなたがたを救いに来る』使者が帰って来てそう知らせると、ヤベシュの人たちは喜び祝った(サム上11:9)」待ち焦がれていた救いの到来が、使者の口を通して告げ知らせられたときの喜びは忘れられないものだったでしょう。彼らが危険を犯してサウルたちの遺体を引き取り、火葬にして七日間断食したところに、今も昔も変わらない恩義に対する感謝と死者を悼む心が描かれているように思えます。神の霊が激しく降ったことで、ヤベシュの人たちは救われました。彼らにとってのサウル王は、神の愛を示す救い主として用いられたと言えるでしょう。
3.選んだものを最後まで用いる神の計画
なによりもサウルはダビデにとって生涯忘れることのできない存在であり続けました。ただ命をつけ狙う正気を失った王としてだけではなく、サウルによってダビデは多くのものを得ています。サウル王の生涯のなかで、ダビデにとって大きな働きかけとなったのはペリシテ人の手に追いやったことでしょう。「サウルは自分でダビデに手を下すことなく、ペリシテ人の手で殺そうと考えていた(サム上18:17)」「ダビデを罠にかけ、ペリシテ人の手にかけよう(同21)」。こうしてサウルに追い立てられるようにダビデはペリシテ人の手に引き渡され、苦難の道を歩みます。しかしペリシテの地へと逃げのびるなかで、ダビデは仲間と家族と土地を得ます。また王としての自覚を持つようになって、立派に成長してイスラエルに帰還することとなっていきます。
サウルは神の選びを受けながら、王としての地位を追われた人ではありました。その最後はギルボア山上での自害です。しかしそれまでの歩みのすべてが御心に背くものではなかったことを覚えておきたいと思います。たしかに対照的なダビデとサウルの歩みですが、詳らかに見てみれば、お互いに善の時在り、悪の時在りです。容易に善し悪しを裁くことは、人にはできません。むしろ二人の歩みを並列に見比べることで、どのような歩みのなかにも神様の御心が及び、救いの御業に用いられることがあることを、心に留めさせてくれるのではないでしょうか。
正しい人を悪に引き渡す人も神が選んで用いる真実は、新約聖書においてさらに詳らかにされています。信仰者であるはずのファリサイ派、サドカイ派たちはイエス・キリストの言動に心を焦らせます。論争を挑みますが、語る言葉の正しさに抗しきれず、怒りが募ってポンティオ・ピラトのもとに引き渡します。イエス様の引き渡しについて、そのなかでも重要な役割を果たしたのは、イスカリオテのユダです。彼が使徒としてイエス様ご自身に選ばれながら、裏切って引き渡したことは、驚くべき神の真実です。神に近いことを自称するものたちの残酷と悲惨、使徒として選ばれたものの裏切りを聖書は伝えます。しかもそれらは、十字架の死と復活のためのご計画のうちに秘められていたことでした。神学者カール・バルトは著書『イスカリオテのユダ』においてこう語ります。「神のみ旨のなかで必然的なものとして決定された引き渡しの特別な要因および代表指数が、使徒、イスカリオテのユダ、である」。神の選びの真実は人の知恵が及ぶところではありません。しかしキリストによる救いの成就にすべての選びが集中していることを聖書も、そして教会の歩みも証しします。ダビデの従順とサウルの背反の関わりのなかに、予兆が示されているように思われます。遠大な計画のなかでわたしたちは生きております。生き悩むとき「神様は今、わたしをどのように選んで、どのようにお用いになっているのだろう」という俯瞰した視点で信仰生活を見つめ直せば、人の善し悪しの基準を超えた視点で、新しいものが見えてくることもあるのではないでしょうか。
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