6月3日説教のポイント
「御前に安らう日」
聖書 マルコによる福音書第2章23-28節
伝道師 三輪恵愛
1.安らぎを得る安息日なのに...「こうでなければならない」という考え方
教会特有の言葉の一つ「安息日」は、今は日曜日のことです。神様は「七日目は休むように」と言われますが、本当の「安息」とはなんでしょう。今日の聖書では安息日のはずなのに、聖書を良く読んでいるはずのファリサイ派(イエス様に反論する人たち)は弟子たちをなじっています。「なぜしてはならないことをするのか!」。弟子たちは、聖書を良く知っている彼らの「正論」に言葉もありません。心を休めるはずの安息日なのに、彼らのあいだには安息日の意義をめぐって、緊張が走ります。
2. 聖書は義務を押し付けるものではなく、理解を深めるためのもの
ファリサイ派の、「こうでなければならない」を押し付けて反論を許さない態度には、なぜ弟子たちが麦の穂を摘んででも空腹を満たしたいと思ったかを理解する歩みよりがありません。「正論」をかざす一方的な態度です。聖書は、規定(律法)に正しいか、間違っているかを判断するためのものでしょうか。そうではありません。イエス様がほかの聖書の箇所(サムエル記上第21章「ダビデの逃避行」)を引用しておられるように、様々な箇所を参照しつつ、神と人について深く知るためのものです。ファリサイ派は、イエス様の敢えての間違い(×アビアタル➡○アヒメレク)を指摘できません。聖書を読んでいるようでいて、大切なところを読み飛ばしています。
3.健やかに生きて行くために、立ち止まって意味を問い直す大切さ
人の生き方は、白黒、善悪、右左、敵味方の二者択一で割り切れるほど単純でしょうか。「こうでなければならない」に身を委ねれば、確かに人生は分かり易くなるところもあるでしょう。しかし、その積み重ねは深い相互の人間理解の妨げになるかもしれません。複雑にからみあっている人生の在り方を、少し歩みを止めて「どうしてこうなのだろう」と、自己を見つめ直す時間も必要なのではないでしょうか。神様は六日間、世界を創造し、人に命を与えたあと、七日目にお休みになりました。全能のお方なのに!聖書は、世界のはじまり、命の在り方、罪の痛みと赦しの平安など、いつもは考えることもない事柄を考えるきっかけを与えてくれます。わたしたちにとって本当は大切なことを、すこし立ち止まって、神様に守られながら思いめぐらすために。これが安息日の始まりです。イエス様が「安息日の主である」と言ってくださったのは、イエス様に関わる事柄を通して、神様を知り、また人を理解していくときに用いてほしいとの願いからです。弟子たちは麦畑のなかで、道を見出そうとしながら麦の穂を摘みました。そして一息ついて、また歩みだす元気を得ました。神様の御前に安らぐ時を、共有の喜びとしていけますように。
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