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6月6日祈祷会 サムエル記上第28章

ギルボアという地名が出て来ました。ここがサウルの最後の地となります。兵力を結集するペリシテの前に、イスラエルも軍を展開します。開戦に先立ち、どうにかして神に頼りたいサウルは、身分を隠して口寄せの女を尋ねました。自らの禁令を破るほどにサウルは追い詰められています。サウル最後の日をめぐり、人の霊的な弱さを確かめつつ、主が守ってくださる恵みをたずねたいと思います。

1.サムエルは亡霊か、それとも・・・

「老人が上って来ます。上着をまとっています」。「なぜわたしを呼び起こし、煩わせるのか」。平安の眠りについた霊が呼び起こされ、語り出す、不気味な情景でもあります。聖書が記しているのならば、死者の霊が地上にとどまり語りかけるということがありえるのでしょうか。亡霊の類は、キリストの信仰と相いれないのではないかとも考えてしまうところです。しかし新約聖書においても、たびたび悪霊が現れ、人々を脅かすことが記されています。「亡霊のような存在は一切、わたしたちとは関わりがない。こういった出来事は信仰的ではない」と考えて否定してしまうと、霊的なものを記している箇所が理解しがたくなるかもしれません。聖書は、神の御存在も、そして人の存在も霊的なものとして語ります。

口寄せや霊媒の禁制は、サウル独自の立法によるものではありません。律法においても禁じられています(レビ記19:31など)。これは、口寄せや霊媒のような生業は偶像礼拝に結びつくので禁じるものであると同時に、禁じなければならないほど人は霊的な作用に弱く、守る術がないことを意味していると考えられます。聖書は霊的な存在を実在しないと考え否定するのではなく、実在すると考え、悪影響から人を守るための御言葉を伝えます。創世記第2章によれば人が霊的な存在として創造されたことがわかります。イエス様は人々から悪霊を追い出し癒しました。使徒たちは、魔術師や占い師と対決します。霊に直接働きかける悪い力は、人間を弱め、神の祝福と本来の在り方から遠ざけようとします。それゆえ信仰者は、聖なる霊の守りと働きに信頼をおくようにと勧められています。

サムエルの霊は悪ではありません。サムエルの務めは預言者でした。これまで読んできたところでいえば、第三章19「主は彼と共におられ、その言葉は一つたりとも地に落ちることはなかった」、同じく21「主は御言葉をもって、シロでサムエルに御自身を示された。サムエルの言葉は全イスラエルに及んだ」。サムエルは、神の言葉を語る人として用いられました。眠りから起こされたサムエルは、なお主の御言葉を忠実に語る預言者であり続けています。そのサムエルの霊を呼んだ口寄せの女の務めは本来、神の御言葉から人を引き離すものでした。しかし神はその務めをすら用いてサムエルに最後の託宣を語らせます。

2.サウルへの決定的な裁きの言葉

サムエルが語る言葉は、サウルの魂を安らげるものではありませんでした。厳しい裁きの言葉が語られます。「あなたの手から王国を引き裂き、あなたの隣人、ダビデにお与えになる(17)」「主はあなたのみならず、イスラエルをもペリシテ人の手に渡される。明日、あなたとあなたの子らは(死者である)わたしと共にいる(19)

サウルはあまりの厳しい裁きの言葉に、地面に倒れ伏してしまいます。神様の御言葉をないがしろにすると、これほど厳しいことが語られるのでしょうか。わたしたちはサウルの姿から、神に選ばれながらも御言葉をないがしろにした結果、これほどの厳しい裁きが下る様子を見て、恐ろしさを感じます。イエス様は「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う(マルコ3:27-28)とも言われた。また「神の素晴らしい言葉と来たるべき世の力とを体験しながら、その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです(ヘブライ6:5-5)との御言葉もあります。

信仰を保ち続ける人がいる一方で、信仰を失ってしまう人がいることは真実です。それゆえ信仰の道には厳しさがあることは忘れることはできません。しかし、この事実はわたしたちを「信じる者」と「そうでない者」とに分断するものなのでしょうか。むしろ恐ろしさを知るからこそ、福音の恵み深さを忍耐強く、愛をもって伝えることの大切さに気付かされるように思います。裁きの言葉を語りうるのは、救いを与えてくださる主なる神様のみです。教会は、大切な人たちが救いに漏れることがないように、福音を語り続けたいと願うものです。

3.サウルの最後の晩餐に込められた温かさ

サムエルの言葉にサウルへの希望は残されていませんでした。食事も喉が通らないほど衰弱し、聞かされたあまりにも厳しい言葉に倒れてしまいます。察するにサウルの魂は完全に砕け散ったのではないかと思います。

さて、そのあとの口寄せの女の言動や家臣たちの姿は、厳しさのあとに温かさを遺しているように感じられます。「ささやかな食事をあなたに差し上げますから、それを召し上がり、力をつけてお帰りください(22)。起き上がって、床の上に座り食事を摂るサウルの姿が思い浮かぶようです。肥えた子牛と種無しパン。急ごしらえとはいえ、美味しい食事ではなかったでしょうか。美味しい食事は、心を和ませるものです。そして、主従三名にとっては、これが出撃前の最後の食事となりました。

サムエルが語る神の言葉がイスラエルの全地に及んだように、神が救いに導こうとしておられる愛には、もともとサウルも、サウルが憎んだダビデにも、ヨナタンにも、禁令によって追放された霊媒師や口寄せの女にも、サウルに振り回され続けた家臣たちにも含められていました。神に見放された王、口寄せを生業にする女、どちらも働きとしては御心に背いてしまった人たちです。しかし労り合い、食事を共にする姿には、素朴な人の姿の関係の回復が見受けられます。

神様は確かに、御心に背く者へ「否」を突きつけられます。神様の裁きに畏れを感じるところです。しかし聖書は、神様の憐れみが人を見捨てないこともまた語られます。幸いにしてキリストの教会につながるわたしたちには、憐れみによって赦しのもとに導いてくださるお方を与えられました。最後の食卓で、子牛が屠られ、種無しパンが振る舞われているところに、わたしたちには、種無しパンが割かれ、小羊が屠られた日を記念する食卓にいつも招かれていることを思い起こします。主の食卓には、神に信頼せずに生きていく心細さと背きの恐れによって、魂が打ち砕かれたものが招かれます。この恵みが当たり前のものではないことを、サウルのように徹底的に打ち砕かれた魂とともに、確かめたいと思います。主の選びを受け洗礼を授けられたのち、まだ食卓に招かれていない多くの方がおられます。授けられた聖霊が信仰の告白への熱意をもっていることに気づいていただき、赦された罪びととしての歩みに目覚めるよう、わたしたちは忍耐と愛情をもって、祈りつつ、福音の恵みを語っていきたいと思います。

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