7月15日説教のポイント
「心、通い合ったなら」
聖書 コリントの信徒への手紙二第12章1-10節
伝道師 三輪恵愛
1.苦心のうえ建ちあがったコリントの教会で、一致が乱れる試練
パウロと同労者たちは、キリストの福音を宣べ伝えるために、苦労を重ねてきました。その働きは豊かな実りを結び、コリントでもキリストの教会が建ちました。ところがパウロたちが他のところで伝道しているあいだに、教会は乱れてしまいます。自分たちの知識、優れた行い、うわべの信仰を誇る人たちが出て来たのです。彼らは「パウロたちは本当の伝道者ではない!」と言い始めました。キリストのご栄光ではなく、人の功績が誇りとされるようになり、教会が乱れ始めたのです。コリントへの二つ目の手紙のために筆を執ったとき、パウロは大変弱っていました。
2.パウロ「驚くべき神の啓示が与えられた人を誇り、自分はこの弱さを誇ろう」
そこでパウロは、自分を誇るのではなく、ある人のことを誇ります。「その人は十四年前、第三の天まで引き上げられ」「楽園で言葉を聞いた」。なんたる不思議な体験でしょう。その人が素晴らしいのではなく、こうして人に言葉による啓示を見せてくださるキリストを誇ります。その人は「キリストに結ばれていた」人なのです。それにしても、パウロは自分のことについては、まったく誇りません。「自分自身については、弱さ以外に誇るつもりはありません」彼は、キリストの教会で、ご栄光を差し置いて、自らを誇ることは教会の一致を乱すことを、痛みをもって知っていました。弱さの原因として、「一つのとげが与えられた」と言います。望んでいない苦しみによって、彼は弱さを知りました。しかしそれは、「キリストの力が内に宿り」キリストの力が「弱さのなかで十分に発揮される」ためだったのです。
3.弱さを互いにキリストの前に差し出すことが、キリストの教会の強さになる
パウロに与えられた「とげ」は想像するよりほかありませんが、そこに自らの弱さのもとを重ねることも出来るでしょう。望むものが与えられず、望まないものが与えられる現実です。そこにわたしたちは実際の弱さを見ます。この弱さを、教会ではキリストの御前に誇っていいというのです。わたしたちの弱さのなかに、キリストが生きて働いてくださるからです。病への寄り添いがあり、困難を、痛みを分かち合います。信仰の弱さを励まし合います。自分を誇ることでは決して通い合うことのない私たちの心です。そのようなわたしたちに神が啓示によってまず御心を聞かせくださいます。この楽園の先取りである礼拝が、神の啓示による希望を新たにするところなのですから!十字架において弱さを知り給う神、イエス・キリストにより、わたしたちも弱さを通して心が通い合っていきます。弱さを隠すことなく、この神様に信頼して差し出せる平安、そこに人は招きを受けることとなります。
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