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7月18日祈祷会 サムエル記下第3章1-21節

「サウル王家とダビデ王家との戦いは長引いたが、ダビデはますます勢力を増し、サウルの家は次第に衰えていった(1)サウル王家の凋落とダビデ王家の隆盛をみて、神は裁くお方であることを知らされます。

聖書は神の厳しい裁きの現実を、律法によって示されます。しかし律法は、キリストの信仰に至る祝福への道程でもあります。使徒パウロは「こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです(ガラテヤの信徒への手紙3:25)。」と語りました。キリスト以前は、すべての人が律法を完全に守ることのできない罪びとでしかありえませんでした。しかしそれは、やがてすべての人を、キリストを信じることで救われる神の義に導くためのものでした。

主の御心に背くサウル王家を選ばず、ダビデ王家を選ばれた主の御心。そして、ダビデ王家も、隆盛ばかりと思いきや、ほころびが少しずつ見えてくるようになります。古の信仰者の赤裸々な有様や、罪の姿を追いながら、今を生きるわたしたちは、自己の信仰のために並べ比べることを奨められています。これは聖書に信仰の規範を求める読み方です。

1.家族に垣間見るダビデの信仰のほころび

2節から5節まで、ダビデの家族のことが触れられていました。また13節では、かつてダビデと結婚したサウルの娘ミカルが、アブネルとダビデの契約の条件にされています。

さきほどダビデ王家のほころびという言い方をしました。この先のダビデ王家の歴史は、ご存じのようにやがては争いと混乱が繰り返されることになります。原因となるのは、家族どうしの争いです。複数の妻と多くの王子たちがいたことに原因があらわれています。士師記では、ギデオンの王子たちが骨肉の争いを演じたところを見てきました(士師89章、ギデオンの息子アビメレクの過ち)。ダビデの家族の中で、とくに後ほど取りざたされるのは、アムノンとアブサロムです。彼らの間で、のちほど兄弟殺しが起きます。

また、先に本章16節を見ておくと、ミカルの夫パルティエルが泣いて追いかける悲しい様子が記されていました。無理強いの離婚とはなんと無体なことでしょう。夫から妻を取り上げダビデに渡すこの行為は、律法に触れるものです。「彼女を去らせた最初の夫は、彼女を再び妻にすることはできない。これは主の御前にいとうべきことである(申命24:4)またイエス様はこう語られました。「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない(マタイ19:6)

隆盛のダビデ王家にも問題が芽生えつつありました。あのナバルへの報復を思いとどまらせた賢妻アビガイルもいるのに、ダビデはかつての愛妻への情が強かったようです。ユダヤ教のラビは、ダビデがサウルの血筋に固執したとも考えるようです。いずれにしても律法を犯し、人を悲しませても妻を取り上げるダビデに、人としての弱さと権力への依存が滲み始めているようにも思えます。

2.権力を操るアブネルの歪んだ信仰

「サウル王家とダビデ王家の戦いが続くうちに、サウル王家ではアブネルが実権を握るようになっていた(6)権力は人を狂わせるものです。それは信仰者であっても同じです。権力によって人がおかしくなってしまう様子は聖書も教会の歴史も繰り返し語るところです。かつてはサウル王へ忠義を誓っていたアブネルでしたが、その側室と通じるという如何わしい罪を犯しています。

前章では、アブネルは「イシュ・ボシェトを擁立(“取る”と言う意味)した(2:8)とありました。イシュ・ボシェトは、ペリシテとの戦闘に加われなかったあたり、どうも存在感のない王子だったことが伺えます。また可哀想なことに「イシュ・ボシェト」は「恥の男」という意味です。父サウルは彼をあまり愛していなかったのでしょうか。深く勘ぐる学者は、まずイシュ・ボシェトがリツパと通じていたことを推測します。それゆえイシュ・ボシェトはアブネルの横恋慕に嫉妬してなじったと。ところが軍の最高司令官であるアブネルに一喝され縮み上がる有様です。

この不逞なアブネルが「主がダビデに誓われたことを、わたしがダビデのために行わないなら、神がこのアブネルを幾重にも罰してくださるように(9)などと言うのは、まことに虚しいことです。かつての君主の側室と通じ、自分が擁立した王子を恫喝する振る舞いは、彼こそ「ボシェト」恥の極みでしょう。罪への悔い改めなく、しかも自分が信仰的にふるまっていると思い込んでいる姿ほど、人をつまずかせるものはありません。初代教会が建てられるとき、土地の代金をごまかして聖霊を欺いたアナニアとサフィラは「人間を欺いたのではなく、神を欺いた(言行録5:4)ことで息絶えました。

3.主の家で権力を誇る悲しい罪の姿

「アブネルはダビデに言った。『わたしは立って行き、全イスラエルを主君である王のもとに集めましょう。彼らがあなたと契約を結べば、あなたはお望みのままに治めることができます(21)』」サウル王家が属するベニヤミン族も含め、全イスラエルにダビデの勇名は轟いていました。かつては「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」と手を叩いて喜びました。王の不在に不安を抱いていたイスラエルはダビデの君臨を願っていました。そこでアブネルはイシュ・ボシェトを見限り、ダビデに実権を握らせようとします。

 今日は特にアブネルの振る舞いを特にみてきました。権力を誇ろうとするアブネルの姿は裁きに置かれる人の範例です。主の御前に謙遜に信仰をささげる人にとっては思いもよらないことですが、教会にもこのような振る舞いをして恥じない人はたくさんいました。

三つのヨハネの手紙は、使徒ヨハネによって導かれた教会へ宛てられた手紙です。「互いに愛し合いなさい」という勧めの言葉が繰り返されることが印象的な手紙です。それは聖霊を分け与えられたものたちによる、キリストを中心とした愛の業です。ところが「反キリスト(アンチクリスト)」と呼ばれる人たちが教会を乱し始めました。彼らは「イエスをメシアと認め(2:2225)ません。第三の手紙で、著者ヨハネは「指導者になりたがっているディオトレフェスは、わたしたちを受け入れません」と反キリストに染まった人を名指しし、注意するよう喚起します。「主よ、神よ」と祈っていながら、その実、自ら義と認めて恥じない人たちです。こうした人が初代の教会を乱しました。

教会を建て上げる聖霊は、神に選ばれた人を、律法のもとにキリストを信じる謙遜な信仰に導いてくださいます。そして、キリストのみを救い主として崇め奉り、互いに愛し合う教会へと成長させてくださいます。

「主よ、神よ」と言いながら王子を恣に担ぎ上げ、イスラエルの王国を意のままに操ろうとするアブネルの姿に比べれば、まったく反対の道です。自己義認の傲慢から解放してくださり、福音によって主の教会に自由に仕える道を歩ませてくださるのが、愛するキリストの霊です。伝道128年目に入るわたしたちの岐阜教会も、ますますキリストをのみ信じ、神と人を愛する業に仕えたいと願います。

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