« 7月22日説教のポイント | トップページ | 7月29日説教のポイント »

7月25日祈祷会 サムエル記下第3章22-39節

前章では、司令官アブネルが権力をほしいままにする背きの姿をみました。アブネルの信仰者らしからぬ姿を見ながら、神様の裁きに思いを致すものです。「主よ、神よ」と祈っておきながら、自らの権力を押し通すアブネルは不遜と言わざるを得ません。その一方で、政治的に見れば、ダビデにとってアブネルの申し出は千載一遇の好機でもありました。

1.統一の好機をもたらしたアブネル

ユダ族から油を注がれたとはいえ、ダビデの味方は十二支族のなかのたった一部族です。27節によれば、彼らはまだ略奪に生活の資を頼っていました。イスラエル統一への道のりはまだ遠いようです。アブネルが残りのすべての部族をまとめ上げ、そっくりそのままダビデ家に相続させると言うならば、これほど美味しい話はなかったわけです。無駄な血も流れずに済みます。それゆえ、ダビデにとってアブネルは「平和のうちに送り出す(23)ほどの頼れる存在でした。まだサウルとダビデの仲が険悪でない頃からアブネルはサウルの最側近だったから、サウル陣営にあって、ダビデはアブネルと多少気持ちも通じていたのかもしれません。

ところがその好機を潰したのが、ダビデの側近ヨアブでした。アブネルを偽って呼び出し、殺してしまいます。それは30節によると弟アサエルの仇に報いたものだと言います。しかしヨアブの殺害動機は公平性に欠きます。第二章でダビデ家とサウル家の内戦をみました。このとき弟アサエルはアブネルの命を狙ったとき、戦場で死の際まで追い詰め、アブネルは追跡を止めるように警告していました。それでも頑なに追い続けたアサエルから身を守るために、アブネルは止む無くアサエルに抵抗したのです。ですからヨアブが偽って呼び出し、抵抗できないアブネルの命を奪ったことは著しく公平性を欠く行為だと言えます。

さて、このヨアブとはいったい何者でしょうか。初出はサムエル上26章です。ダビデとサウルがはじめて陣を対峙させたとき、ダビデと一緒にサウルの陣に忍び込んだ勇士にアビシャイがいました。これがヨアブのもう一人の弟であると説明されています。それ以前には名前が出ないことから、ダビデ逃亡のさなかに配下になったもののようでもあります。ダビデの逃亡中、配下に集まったのは「困窮している者、負債を持つ者、不満を持つ者(22:2)でした。また25章ではダビデに従っていたなかには「ならず者がいた」とも記されていました。ヨアブは、なにかしらの理由で社会からはじきだされるような、荒事と策略が得意な人物だったかもしれません。

2.指導者としてのダビデの苦悩

ヨアブの全くの独断により、ダビデは再び苦境に陥ることになります。せっかく成りかけた和平が白紙に戻されました。むしろ、和平をもちかけたアブネルの命を、ダビデは配下に奪わせたという汚名すら着せられかねない状況です。

そこでダビデは即座にこの件に関して潔白であることを宣言します。「ネルの子アブネルの血について、わたしとわたしの王国は主に対して潔白だ。その血はヨアブの頭に、ヨアブの父の家全体に降りかかるように(28)後世のポンティオ・ピラトの判決に通じるような言葉です。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある」(マタイ27:24,25)イエス様を裁判にかけたとき、ピラトは十字架の責任を負わせられることを恐れました。ダビデはアブネル殺しが、ヨアブの主君である自分への裁きを招くことに恐怖しています。そのように考えると、その後に記されるダビデの姿は、いささか外見を気にしているようにも聞こえます。「ダビデ自身はアブネルのひつぎの後に従った(31)」「王はその墓に向かって声をあげて泣き、兵士も皆泣いた(32)」ダビデは弔意を持って断食しますが「兵士は皆これを知って、良いことと見なした(36)これは、まだ一枚岩ではないダビデ王家と残りの氏族のまとまりのために、ダビデが兵士たちの心をまとめるために慎重に振る舞っているように受け取ることができるでしょう。記述者は一行入れます。「すべての兵士、そして全イスラエルはこの日、ネルの子アブネルが殺されたのは王の意図によるものではなかったことを認めた(37)このように理解されることがダビデ家の存続に必要だったようです。

3.人間関係の苦悩も用いられる神様

人の集いが大きくなるということは、様々な考え、性格、生活の背景を持った人が集まるということです。サウル王家もダビデ王家も、それなりに大きい家となったところで、アブネルやヨアブのような人物を抱えることとなりました。ダビデにとっての新しい苦悩は、王としての召命に生きるにあたり「多様な人間をいかにまとめ上げるか」ということでした。「主に対しての潔白(28)」「神が幾重にも罰してくださるように(35)」「主ご自身がその悪に報いられるように39節」と語るように、ダビデは自分の召しを自覚しながら、主の御心とご栄光が損なわれることがないように細心の注意を払っています。

さきほど、ピラトの例を出しました。身の潔白を示すために彼はイエス・キリストの十字架刑への不関与を主張します。しかしピラトは本当に不関与の立場にあるのでしょうか。「そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した(ヨハネ19:16)彼は無力ではありませんでした。ユダヤ総督として判決を下す権力を持っていました。それにも関わらず最終的にユダヤ当局に引き渡したところに、彼にも十字架の責任があります。それゆえ「ポンティオ・ピラトのもとに苦しみを受け」とわたしたちキリスト者は、いつの時代、だれの決定でイエス・キリストの十字架刑が執行されたかを繰り返し覚えます。

ダビデに戻るとどうでしょうか。「わたしは油を注がれた王であるとはいえ、今は無力である(39)と苦しみが滲むような言葉を語ります。主は不思議なことに、王として選び油を注いだダビデをまだ苦しめられます。ところがこの無力のなかでこそ、ダビデは主が整える王座への道を示されていきます。アブネルが殺害されたことは確かに損失でしたが、長い目で見た時、ダビデはアブネルを使いこなすことが出来たでしょうか。主君を恫喝するような人物です。またヨアブはこのような無体を重ねて、不幸な結末を招きます。主はダビデを苦悩のなかに置きながらも、無力を悟らせながら、王への障害を除き、道を整えておられるのです。

ある先輩牧師の苦労話ですが、社会的地位を持った長老と、実務派の長老が仲たがいする教会に仕えることになったそうです。結局、二人の長老で教会はかき乱され、二人とも教会を離れてしまいました。苦悩のなかで、教会のために祈った牧師ですが、苦悩を共にしてきた教会員は後に互いの苦労を知り、良くまとまったということでした。まったくの無力のさなかでも、その後のために主は道を備えていてくださったと希望を語ってくださいました。そして、とにかく短気を起こさず、主に信頼することを教えてくださいました。無力の時ほど力を示してくださる主に信頼しつつ、御一緒にお仕え出来ればと思います。

« 7月22日説教のポイント | トップページ | 7月29日説教のポイント »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 7月25日祈祷会 サムエル記下第3章22-39節:

« 7月22日説教のポイント | トップページ | 7月29日説教のポイント »

フォト

カテゴリー

写真館

  • 201312hp_2
    多田牧師「今月の言葉」に掲載したアルバムです。(アルバム画面左上のブログ・アドレスをクリックしてブログに戻れます。)
無料ブログはココログ