7月29日説教のポイント
「主よ、そこにおられましたか」
聖書 マルコによる福音書第6章1-6a節
伝道師 三輪恵愛
1.「奇跡が起きないのは不信仰のせい?」救いにはどれほど信仰が必要なのか・・・
「救いは、信仰のみによる」プロテスタントの精髄とも言える言葉です。目に見えるものに頼らないプロテスタント教会の多くは、像も、十字架も、ステンドグラスも持ちません。目に見えない、キリストへの信仰に集中します。それだけに、今日の御言葉にあったように「不信仰」という言葉が心に残ります。イエス様の故郷ナザレに住む人たちは、イエス様の教えを受け入れることができませんでした。イエス様はその不信仰を驚かれますが、「何も奇跡を行うことがおできにならなかった(5節)」と、あたかもナザレの人々の不信仰がその理由であったかのように書かれています。人の不信仰が理由で救いの御業が起きないのであれば、わたしたちには一大事です!いったいどのような信仰を求めていけば、救われるのでしょうか。
2.福音を聞いて信じることが信仰ならば!信仰に光を差し込む良き知らせ
「イエス・キリストの福音のはじめ(マルコ1:1)」「福音を信じなさい(同1:15)」イエス様は福音を伝え、聞いて信じるようにと教えられました。福音の中心は、決して難しいことではありません。「イエスというお方の言葉、行い、示すものに信頼して生きて行くこと」このような生き方がすでに救いだというのが、福音の中心的な事柄です。ところが、これを聞いたナザレの人たちが示した態度は、むしろ現実的なものでした。福音が語られる教会で、その恵みに与りながらも、現実の目に見える世界が圧倒的な力を持ちます。自分の経験、力、判断に頼って生きていこうとします。イエス様の事を考えながら最善の道を選ぶことができればいいのですが・・・
3.「人々はイエスにつまずいた」私たちの目をそのご存在にむけさせるために
「不信仰」にならんで、あまりいい意味では用いられない「つまずき(スキャンダリゾー)」。「罠にかける」「石でつまずかせる」という意味を持つ言葉は、人の意識をある事柄へ注目させます。「イエスにつまずいた(3節)」とは不思議なことです。ナザレの人たちは現実が強すぎて福音を聞けませんでした。あのイエス様が信仰をつまずかせるのでしょうか。イエス様は十字架にお架かりなる前にも、同じように語られます。「あなたがたは皆わたしにつまずく(マルコ14:27)」。「この福音を語る人はいったい誰なのだ?」「十字架に架かるこの人は一体何者?」それはイエス様にすべての人が目を向け、信頼していくために必要なことでした。「不信仰に驚かれた(6節)」のは、信仰のみの救いの必要を確かめられたからです。つまずきのない信仰はありません。現実のなかでイエス様に頼ることを忘れるわたしたちです。しかしそのつまずきのなかにこそ、「わたしを信じなさい」と人となられた神がおられるのです。
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