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8月22日祈祷会 サムエル記下第6章

エルサレムを都に定めたダビデは、神の箱を都に運び入れることにします。これはモーセ以来、大切にされてきた神様との契約が納められている箱です。ペリシテに奪われたあと、アビナダブの家に置かれたままになっていました(サム上第四章~第六章)

この神の箱の運び上げを巡って、本章は二つの出来事が記されています。前半の「ウザ打ち」と後半の「ダビデの踊り」です。神の箱の前で起きたこれらの出来事を通して、信仰の在り方を尋ねてみたいと思います。

1.ウザはなぜ打たれてしまったのか

ウザが神様に打たれ、神の箱の傍らで命を落としてしまいました。これについて、ダビデは怒っています。読者も「それほどウザは悪いことをしたのだろうか」と考えるところでしょう。ウザに落ち度はあるのでしょうか。 

じつはウザだけではなく、このとき運び込みに関わった人々の考え方が、そもそも誤っていたようです。

彼らは神の箱を車に乗せ、牛で曳かせています。「新しい車」を用いて敬意を表しているかのようにも思えます。しかしこの仕方はサム上第六章によると、ペリシテ人と同じものであることがわかります。そのとき神の箱の力を恐れたペリシテ人は、牛に曳かせた車に神の箱を乗せ、イスラエルに送り返しました。

そもそも神の箱が奪われた原因は、軽々に戦場に持ち出して加護を受けようとしたからでした(サム上第四章)。畏敬の念が薄くなったことで起きた過ちです。にもかかわらず、彼らは異邦人であるペリシテの方法を、何の反省もなく踏襲しています。この運び方は神の定めにも反しています。荒野の旅路のなかで「神の箱は民の先頭にあって、輪に棒を通して、レビ人が担ぐ」と繰り返し語られてきました(出エ37:1-5、民数10:33,ヨシュア3:3)

ウザたちは、祭司の家系でありながら、しばらく自宅に神の箱を安置して暮らすうちに、畏敬の念が薄れてしまったようです。かつて信仰の先祖が守ってきた定めを忘れ、異邦人と同じように牛に曳かせます。牛がよろめくこと事態は不測の事態ですが、はじめからしっかり担げば起きなかったことでした。それを手で支えようとしたウザが打たれたことで、この運び方は誤りであることが示されました。

神の箱は、主の御言葉が納められた箱です。御言葉を運ぶ務めへの畏れが記されているこの箇所は、わたしたちにも注意を促すものではないでしょうか。わたしたちは聖書をいつでも傍らに置き、読むことができます。御言葉に慣れ親しむように招かれています。しかし紐解くときの畏れがなくなると、御言葉の深さや尊さにたどりつけません。祭司であるレビ人は自ら、神の御言葉の重みを体で感じながら担いで運びました。この姿は今に伝わります。すなわち教会も、神の言葉の重みを体で感じながら運び続けます。ウザが責を負ったように、御言葉への恐れが失われ、畏れを持たない人々と同じような扱いをすれば、その群れは打たれるでしょう。わたしたちの信仰は、神の言葉への畏れで成り立っています。畏れが無くなれば、御言葉の真実に近づく営みは失われ、そこに信仰の民はいなくなるわけです。厳しいながらも、神の真実が示されています。

2.力の限りに躍って喜びをあらわすダビデ

ダビデは怒ります。ウザの犠牲に痛みを覚えたのでしょう。そして怒りはすぐに恐れに変わります。そこで「オベド・エドムの家」にいったん置くことにします。この一家は他の箇所によるとレビの一族であることがわかります(歴代誌上第15)。彼らが祝福されたことを主の御心と受け取り、ついに神の箱を迎えることとしました。あらためて、正しい仕方で神の箱を「担いで」運んでいます。ダビデに倣うべきところは、家臣の犠牲に怒りを感じながらも、すぐに過ちを認めてあらためているところでしょう。事柄の意味を聞き取り、畏れをもって仕方をあらためる姿は、悔い改めそのものです。

ようやく神の箱を迎えることが出来たダビデは、たまらずに力の限り躍ります。エフォドという祭司の前掛けの下は何も着ずに踊ります。ダビデの喜びは、御言葉を恐れ、悔い改めたからこそ与えられている喜びです。主の御心をたずね、それが正しかったことに確信を得ることが出来たからこその踊りです。 

さて王妃ミカルは、ダビデの踊りをみて、さげすみます。「御立派でした。空っぽの男が恥ずかしげもなく裸になるように」痛烈な言葉です。王ともなった連れ合いが、エフォドの下はなにも着ないで踊る姿は正視できるものではなかったのでしょう。しかしダビデの喜びが、主なる神様にとってどのように受け止められたでしょうか。それはミカルが祝福されなかったことを通して示されているように思われます。また喜びの踊りだけではなく、ダビデがミカルに言い返した「わたしはもっと卑しめられ、自分の目には低い者となろう」という言葉も、主の目には相応しいものだったと言えます。

3.御言葉を畏れるからこその大きな喜び

前半は、ウザが打たれたことを通して、神への畏れが失われることへの戒めが記されていました。これを受けて後半は、神への喜びを表すことへの祝福が語られていました。

畏れと喜びは、相反する感情表現のように思われます。しかし神の御前には、この相反するような心持ちは、調和するものでもあります。神の御言葉を畏れつつ聞くとき、わたしたちは心からの悔い改めに導かれ、新しくされていきます。新しく向き直った姿を主が喜んでくださったとき、わたしたちも、新しい命を得たことに、力の限り喜ぶからです。信仰は神様への一途な愛を求めます。まず畏れが先立ちます。しかし心が畏れに固まってしまえば、喜びを伝えることはできません。たとえ一途な信仰を軽んじられることがあっても、ダビデが言ったように、主の目に良いとされている確信があれば、力の限り跳ね躍って喜びを表すことでしょう。信仰を大胆に表すことの大切さについて、新約聖書から引用したいと思います。「憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか(ヘブライ人への手紙4:16)

イエス・キリストの赦しは、罪が裁かれる畏れを喜びに変えてくださいます。このお方は過ちを嘆くものを侮らず、その身を犠牲にして助けてくださいました。本来は、わたしたちがウザのように打たれなければならなかったところです。イエス様がかわりに打たれてくださいました。そのことで私たちは過ちを知り、喜びながら悔い改めることができるようになりました。しかもこの大祭司キリストとともに、御言葉をしっかり担いで運ぶ務めを与えられています。力の限り、そのことを喜ぶ。畏れあっての、喜びであることを、再び心に留めたいと思います。

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