8月5日説教のポイント
「一緒に食べまいか」
聖書 申命記第8章1-10節
伝道師 三輪恵愛
1.信仰者の群れを導く神の言葉は「重ねて命じる(申命)」、繰り返し語られる。
長い荒れ野の旅を続ける信仰者の群れを、神様はみ言葉をもって導きます。モーセは、語り継ぐものとして召し出されました。旅路の途中で、事件が起きました。モーセが神様からの御言葉を聞きにホレブの山に登っているあいだ、神様の言葉を待ちきれなかった人々は勝手に神様を造り出し、拝んでいたのです。そこで十戒の板はひとたび砕かれますが、再び神様はみ言葉を語りかけてくださいました。それが今日のみ言葉のところです。漢訳聖書の題名「申命(重ねて命じる)」のとおり、神様は神様ではないものを造って拝んでしまう人々のために、常に新しい言葉を聞かせてくださるお方です。
2.「あなたがた」から「あなた」へ、一緒にみ言葉を食べながら生きる群れへ
申命記にはとくに、呼びかける言葉が「あなたがた」から「あなた」に変化していく様子が遺されています。これは、招かれた人たちが一つとなって神の言葉を聞く群れになっていくことを示しています。一緒に、神の言葉を食べる群れになっています。荒れ野の旅路、群れを養ったのは「マナ(「まあ、なんだろう!」の意)という不思議な食べ物でした。日持ちせず、その日の分だけの食べ物です。イエス様は「わたしが天からのパンである」と言われました。わたしたちが群れとなっていま食べているものは「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」イエス様です。このお方が神様ではないものを拝んでしまう人々のために、ひとたび十字架で砕かれて、新しい赦しの言となって、宿ってくださいました。群れのために「重ねて命じる」神の言、そのものとなられたのです。「実に信仰は聞くことにより、しかもキリストの言葉を聞くことによって始まるのです(ローマ10:17)」
3.礼拝のなかで一緒に神の言を食べながら、群れは養われ、目標に向かって歩む
礼拝では多くの神様からの言葉が語られます。それをすべて聞き取って暗記することなどは無理でしょう。しかし不思議なことに、信仰は養われるのです。歌人の林あまりさんは、信徒の立場から『説教はごはん』とのエッセイで「神の言は食べるもの。昨日の晩の献立も忘れてしまうことと同じように、食べたものは忘れてしまっても、しっかりと養いになっているのが神の言」と表現してくれました。個食や偏食が指摘される昨今です。神の言も、個食、偏食にならず、一緒に、語り合いながら、よく噛んで食べる群れとして健やかな信仰を与えられたいものです。耳に優しい岐阜弁『一緒に食べまいか』。この土地ならではのお誘いの言葉で、イエス・キリストの命がたっぷりつまった神の言をお勧めしていけますよう、祈ります。
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