8月8日祈祷会 サムエル記下第5章
罪が熟して滅亡したサウル王家
ダビデ王家とサウル王家の内紛に終止符が打たれました。第三章ではサウル王家の実質な指導者であったアブネルが暗殺されます。そして第四章では、サウル王家を見限った二人の裏切り者によって、イシュ・ボシェトも殺されてしまいました。「ダビデはますます勢力を増し、サウルの家は次第に衰えていった(サム下3:1)」ついにサウル王家は滅亡します。サウル王家が哀れな末路をたどったのは、ひとえにサウル自身の背信にあると言えます。読者はサウルの背きを何度も目の当たりにしてきました。それにしても、一族が滅亡する様には「どうしてここまで・・・」と感じることもあるのではないかと思います。
「これが神の裁き、そして選びである」と結論付けることは容易いことですし、誤りではありません。それと同時に、わたしたちは「人の罪による結末である」ということも忘れないでおきたいと思います。第四章でイシュ・ボシェトを手にかけた二人の人は、ダビデからの褒美を目当てに裏切りました。またアブネルを暗殺したヨアブの動機も、正当な理由を欠く逆恨みです。神様が裁きの手を下すまでもなく、人々の罪が熟して、滅びの道を歩んでしまったと読み取ることも出来ると思います。
第五章に入り「イスラエルの全部族(1節)」また「イスラエルの長老たちは全員(3節)」がダビデのもとに来て、彼に油を注ぎ、王として仰ぐことを誓います。ついにユダと残りのイスラエルの全部族は、ダビデのもとに集まることとなったのでした。もともとアブネルがダビデに持ち掛けた全土統一の約束でした。皮肉なことに、そのアブネルがいなくなり、そしてイシュ・ボシェトもいなくなったことで全土の統一は成就したことになります。こうしてダビデがついに全部族の王となったところに、祈りを伴わない企みは退けられ、御心が必ず成就することが証しされています。
救いの御業が現れるために
ダビデ王の治世がはじまりました。国を治めるには、中心となる首都を定めることが必要です。6節以下には、新生イスラエルの首都としてエルサレムが選ばれた次第が記されています。
エルサレムは小高い丘に建てられた天然の砦でした。攻めにくく守り易い土地で、首都に相応しい街です。ただし、小高いところにあるので水の確保が欠かせませんでした。「水くみのトンネル(8節)」を掘って生活に用いていましたが、これが唯一の弱点でもありました。堅固な城に頼ってダビデを挑発するエブス人たちでしたが、このトンネルから侵入したダビデ軍によってあえなく落城します。
ところでわたしたちにとって、見過ごすことの出来ない言葉があります。「お前はここに入れまい。目の見えない者、足の不自由な者でも、お前を追い払うことは容易だ(6節)」、「このために、目や足の不自由な者は神殿に入ってはならない、と言われるようになった(8節)」。神様を礼拝し、御言葉によって癒されなければならないのは、まさに弱さを抱える人たちのはずです。人を差別するような言葉を聖書から聞かされると、わたしたちは戸惑いを覚えます。
イエス様や使徒たちは、この言い伝えによって神殿に入れなかった人たちを癒しました。ヨハネによる福音書第9章によれば、生まれつき目が見えなかった人が神殿への参道で物乞いをしていました。そこにイエス様は通りがかり、唾と土をこねてその人の目に塗り、神殿の傍にある「シロアムの池」で洗うように言われます。彼は目が見えるようになりました。ペトロとヨハネは、神殿の入り口「美しの門」で施しを受けている男性と目が合いました。「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい(使徒3:6)」とペトロが宣言すると、たちまち彼は躍り上がって立ち、歩き出しました。どちらの人も神殿に一番近いところにいながら見捨てられ、礼拝する場所に入ることを許されなかった人たちです。
イエス・キリストによってすべての人が神を礼拝し、見えるようになり、立ち上がることができるようになりました。目に見える体の障りだけではありません。すべての人は「神様の方を向いて生きていく」ことについては、等しく心のハンディキャップを背負っています。イエス様はこの心の病すら治してくださるために、来てくださいました。「イエスはお応えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである』(ヨハネ9:3)」ダビデの時代の故事は、救い主キリストによって、すべての人が神に招かれるための道備えの一つだったと受け取りたいと思います。
神様に召された確信が力の源となる
「ペリシテ人は、ダビデが油を注がれてイスラエルの王になったことを聞いた(17節)」ダビデの即位はペリシテ人たちにとって、たちまち脅威となりました。17節以降では、攻め寄せるペリシテをダビデが打ち破ります。イスラエルにとっては久方ぶりのペリシテに対する勝利となりました。
ダビデは統一王としての初陣を勝利で飾ることができました。そこには召された出来事への確信が大きく影響したように思われます。「ダビデは、主が彼をイスラエルの王として揺るぎないものとされ、主の民イスラエルのために彼の王権を高めてくださったことを悟った(12節)」これまで長い試練の旅を続けてきたダビデにとって、王としての召命の感覚は弱さを覚えるものでした。しかし全イスラエルからも油を注がれたことで、選ばれた確かさを神の真実として心に刻みこむことになります。
信仰の歩みのなかでは、選びの確かさを得たとき、新しい試練にも見舞われることがあります。しかし神様に召されているという確信ほど、力強い支えはありません。ダビデがこれまで以上にペリシテを打ち破った力の源は、「わたしは神のご用に本当に召されているのだ」という確信にあったのではないでしょうか。
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