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9月16日説教のポイント

「愚かさを誇れるならば」

聖書 コリントの信徒への手紙一第11825 

伝道師 三輪恵愛

.十字架のキリストを、言葉を、宣べ伝えているパウロ

自覚的なクリスチャンの数が少ない日本でも、かつては宣教が大いに進んだ時期もありました。ザビエルの来日から迫害期まで、明治維新前後、そして敗戦後。為政者への反発、西洋の文明、文化の流入と相俟ってキリスト教のブームがありました。キリスト教の持つ良いイメージに対して、パウロの説教は問いをつきつけます。「神は世の知恵を愚かなものにされたではないか(20)」。「十字架の言葉(18)と訳されているギリシャ語は「ホ・ロゴス:“言”」、十字架で語られたいくつかの言葉というよりは、神の言であるキリストそのものを示します。教会が伝えるものはあくまでも神の言、しかも十字架のキリストを宣べ伝えるものだとパウロは語ります。

.「血しおしたたる主のみかしら」私の罪のために・・・にとどまらない十字架

十字架のキリストを信じることとは?要約すれば「十字架の罪を、救い主はすべて肩代わりして死に、復活してくださった。それゆえ信じるものはあらゆる罪から救われる」ありがたい教えです。ところがパウロは、ここにおいては「十字架につけられたキリスト(23)を強調します。ここにはあえて進行形が用いられ、訳せば「十字架につけられ続けているキリスト」となる言い方。そこには自分だけの罪と救いだけにとどまらない神の知恵が隠されています。個人の「知恵」や「しるし」では世は救えません。救われた人が聖なる道を歩むなかで、いまだ世にはキリストの十字架が肩代わりせねばならないほど、救いを知らず、また罪や災いに苛まれている人たちがいることを、神の言を聞きながら、教会は繰り返し思い起こします。

.御子を十字架につけるほどの神の愚かさが、世を救いへと導く

パウロは「神の愚かさ」と言ってはばかりません。しかし愛する独り子を罪のただ中に送り込み、十字架につけられることを留めなかったことは確かに愚かとしか言えません。だれが背くものの為に愛する子供を見捨てることができるでしょうか。十字架のキリストが宣べ伝えられるたびに、わたしたちは神が示す痛みに、苦しみに、憐れみに思いをいたします。語られる言葉であればこそ、わたしたちの心に生じる神の愛です。ブームは去り「十字架につけられ続けているキリスト」に集中する日本の宣教はまだ始まったばかり。神の愚かさを忠実に宣べ伝える教会に、すぐれた神の力は働き続けるでしょう。神が御子を犠牲にしてまで示される救いに与る教会を、神は誇りとしてくださり、愛してくださるのですから。

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