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9月19日祈祷会 サムエル記下第10章

前回は、ダビデが信仰の友であるヨナタンとの約束を果たすために、その息子メフィボシェトに「忠実を尽くす」ところをみてきました。この「忠実」と言う言葉は「ヘセド」、別の箇所では「愛」「憐れみ」とも訳されることも紹介しました。世代を超えてダビデとヨナタンの愛の交わりが次代に引き継がれていったわけです。

本章の出だしも似ているところがあります。「ハヌンの父ナハシュがわたしに忠実であったのだから、わたしもその子ハヌンに忠実であるべきだ(2)とダビデは語り、やはり次代の子に忠実を尽くそうとします。ところが本章の展開はまったく異なり、友好どころか、少しの不安や疑いが戦争に発展していきます。

1.正しさを信じるものへ向けられる不安

本章に登場する異民族アンモン人は、イスラエルとはもともと敵対関係にありました。ところが第8章でダビデがいくつかの異民族と戦った記録によりますと、アンモン人との戦いは記されておりません。しかも贈り物だけはあった(サムエル下8:12)ということから、父王ナハシュとダビデの良い関係がうかがえます。わたしたちの聖書の訳は、国同士の契約にまつわる印象を尊重し、前章に倣って「忠実」「哀悼の意」「弔問の使節」という言葉を用います。いかにも威厳ある王様同士の緊張を伴う間柄のように思えますが、それぞれに用いられている言葉は「忠実=愛」「哀悼の意、弔問=慰める」という意味の言葉です。ダビデとナハシュの間柄は、国の損得を超えた真心の付き合いだったと読み取ることも出来ると思います。

そうすると、ナハシュの息子ハヌンとそのとりまきの振る舞いがいかに子供じみて、モラルに反しているかが際立ってきます。あろうことか弔問の使者に「ひげを半分剃る」辱めを与えています。現代的な感覚ですと「半分剃られたひげならば、もう半分剃ればいいのではないか」と思うかもしれませんが、当時の常識では男性の「ひげそり」は、死に値するほどの屈辱なのだそうです。また下ばきを切り落とすと、ズボンをはかない当時でいえば、隠しどころが露わになるということで、これはわたしたちでもわかるひどい辱めです。

 アンモン人の高官たちの唆しや、ハヌンがそれに輪をかけて辱めたことは、少し理解に苦しみます。先代ナハシュをダビデが仲良くしていたこと、またアンモンからイスラエルへと贈り物をしていたことを快く思っていなかったのかもしれません。日増しに強くなっていくイスラエルに、不安を感じていたことも言えるでしょう。

あるいは本章以外も参照しますと、イスラエルとアンモン人は、宗教的には強い緊張関係にあったことがわかります。アンモン人たちの崇拝する偶像はモレク神と呼ばれていました(列王上11:7)。そして律法よれば、モレク神も、また礼拝の仕方も名指しで否定されています。(レビ18:21)。信じられないことですが、彼らは人身御供をしていました。これはどう考えてもおかしい教えです。

わたしたちは自分たちが信じている神様の善と救いを信じています。ということは、世の中のどう考えてもおかしい教えや考え方には「否」を言う役割も与えられております。宗教的価値観の否定という点を考えれば、ハヌンやとりまきの高官たちが律法を重んじるイスラエルに対して感じていた不安がうっすらと見えてくるようです。

既存の価値観が変革させられることへの不安を考えれば、わたしたちキリストの教会が伝道するときも、社会から不安を向けられることは、ある程度覚悟しなければならないのかもしれません。新約聖書で言えば、イエス様に反抗するファリサイ派、律法学者。ステファノ殉教を支持したサウロ。回心したパウロや同行者たちを迫害する魔術師、ギリシャ人、ローマ帝国。これまで信じていたものを否定される不安が、敵愾心の源になっています。伝道は時に、目の前にいる人がそれまで「良い」と思っていたことに、「否」を突きつけることにもなります。不安を向けられることへの覚悟も求められているのでしょう。

2.使者の辱めを覆うダビデの成熟

しかしダビデとナハシュは、そういった宗教的な緊張を超えて、個人的に良い関係を保っていたようです。宗教が異なっても、個人的には良い関係を持つことができるという一つの例かもしれません。ダビデも主を信じる人でありながら、ナハシュに「敬意を表し」良い関係を持っていました。いずれ信じてくださることを願いながら、今は良い関係を保つという忍耐も、伝道には必要なことだと思います。

残念ながら、次代にはその良い関係が伝わりませんでした。小さな不安が誠実な弔問の使者への疑いにつながり、唆しがあり、真に受けた愚かな新王が悪意に広げていきます。小さな不安が、やがて戦につながる愚かさ。これまでもたびたび見てきました、小さな恐れや不安が、罪、悪意へと広がっていくのは世の常です。「恐れ、不安は罪のもと」だとはっきり示されていると思います。

ダビデ王の愛の思いから、慰めを伝える使者であったはずの人たち。思わぬ辱めを受けてしまいました。ダビデは「ひげが生えそろうまでエリコにとどまり、それから帰るように(5)と、ひげのない姿を隠すようにと思い遣ります。慰めの思いが伝わらず、王の名代が辱められたのですから、怒りを覚えても良いくらいです。しかしダビデは私情に流されず、一番恥ずかしい思いをしている人たちの心をしっかりと捉えています。自らの思いよりも悲しんでいる人の心に寄り添うところ、信仰的に成熟した対応を見せるダビデの姿に教えられる思いです。

3.勝利の励ましは神の正しさに頼る人々へ 

恐れや不安が戦にまで発展してしまいました。章の終わりは、戦いを記しています。先手を打つアンモン人は、アラムを巻き込んで、イスラエルを挟撃する陣をたてました。二正面作戦に打って出たのが猛将のヨアブ。弟アビシャイとともに出陣しますが、その際の言葉が信仰深いものでした。「我らの民のため、我らの神の町々のため、雄々しく戦おう。主が良いと思われることを行ってくださるように(12)「信仰によって義とされる(信仰義認)」理解を重んじるわたしたちは「行いによって義とされる(行為義認)」理解と対立するかのようです。確かにわたしたちの功績が救いの代償にはなりません。しかし聖なる者へ新しくされるなかで、良き行いを為す務めが与えられます。それは救いの代償ではなく、恵みに対する応答の歩みです。ルカ10章「良きサマリア人」の喩えでは、あるファリサイ派の人は模範解答をしていました。「思いを尽くし、精神を尽くして、あなたの主なる神を愛せ」。これは申命記6:4,5の言葉で「シェマー・イスラエル(聞け、イスラエル)」と呼ばれる旧約聖書でも大切なところです。愛してくださる神に、わたしたちも愛をもって応えようと呼びかけます。ベストを尽くして、しかるのちに「主が良いと思われることを行ってくださるように(12)励まされた神の民は大勝利を収めたのでした。ヨアブの励ましは今、教会に生きるわたしたちにも響きます。神の正しさを愛し、応ええようとする人たちに、勝利は約束されています。「神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて、至るところにキリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます(二コリ2:14-15)

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