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9月26日祈祷会 サムエル記下第11章

「世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である(マタイによる福音書18:7)イエス様が言われるとおりです。なんとつまずきが溢れている世に生きていることかと思います。このような世にあって真の神を心から賛美し、御言葉に光を照らされる生き方を心から喜びたいと思います。

ところが誘惑の力はときに激しく、信仰者に襲い掛かります。今夜も、誰かがどこかで誘惑に悩んでいるかもしれません。それはどれほど信仰深い生活を、どれほど長く送っている人でも、起きうることです。ダビデの生き方を見つめて来たわたしたちは、今日、この聖書の箇所で彼の信仰につまずきを覚えるかもしれません。これまでダビデの信仰から多くを学んできたのに・・・。しかし聖書はこのおぞましい物語を削ったり、隠したりせずに語り続けてきました。いわゆる「バト・シェバ事件」が信仰者の心に残るのは、ダビデほどの人物であっても世のつまずきには強くはいられない、信仰の現実を生々しく語っているからではないでしょうか。

1.敢えて淡々と記しながら罪を知らせる

 王となったダビデの心に隙が生まれたのでしょうか。王妃ミカルはダビデの裸踊りを鼻で笑う人でしたが、賢妻アビガイルはダビデの危機を救った信仰者でした。エルサレムに都を定めてからも、さらに妻をめとりました(サム下第5)。王子、王女たちは次々と生まれ、いったいこれ以上、誰を欲するのかと言いたいところです。しかし絶世の美女と言われたバト・シェバの水浴びの姿に、ダビデの目が奪われたのでした。

 2節から5節の短い箇所に、出来事は凝縮して記されています。不気味さを覚えるのは、二人と周囲のやり取りが会話文なく、淡々と事実だけが羅列されていることです。男女の情愛を美しく彩ったり、情緒豊かに飾ったりすることは一切いたしません。世のつまずきは、時折「してはならないこと」を情愛や都合のよい解釈で語り、罪へのまなざしを曇らせます。聖書は何が起きているのかを端的に記すことで、むしろ読者には、問題とすべき罪を悟らせようとします。

 付け加えておきたいことは、バト・シェバの無言です。ダビデの罪ももちろん恐ろしいことですが、彼女がわざわざ王の目に留まるところで水浴をしていたことにも訝しさを感じます。使いの者がやってきたとき、無言でダビデのもとへ行き、無言で床を共にしています。そして一言語ったことは「子を宿しました」との知らせでした。

2.誠実な人の言動がいっそう罪を際立たせる

この一言は、重大な知らせです。ダビデ王と言えど、律法に照らせば姦通は双方死罪です(レビ記18)。動かぬ証拠が知らされました。そこでバト・シェバの夫ウリヤを戦場から呼び寄せて夫婦の再会を許し、姦通の事実を曖昧にしようと画策したのでした。

7節から13節のダビデとウリヤのやりとりからは、二人の対照的な姿が浮き彫りにされていました。罪を覆い隠そうと不誠実な問いを繰り返すダビデの姿には落胆を覚えます。かたやウリヤのなんと誠実なことか。「戦場に労苦する仲間たち、しかも神の箱まで戦線にいるというのに、安穏とできるだろうか」との言葉にダビデが覚えたのは痛みか、それとも焦りでしょうか。推測ですが、ウリヤの誠実な態度や受け答えから、ウリヤは薄々、王に不審を抱いていたのではないでしょうか。突然戦線から呼び寄せ、伝令でも十分な戦況報告を聞き、家に帰らせ、贈り物を与えます。ラバは当時のアンモン人の首都でした。前章に続き、また本章1節にもあるようにアンモン人からの最後の抵抗を受けていたと考えられます。厳しい戦闘だったことも伺えます(17)。謂れのない好待遇には裏があると、ウリヤも感づいていたのかもしれません。やましさからくる不自然な態度は、本人以上に表に出ているものなのかもしれません。正しい人の在り方で、罪はいっそう際立ちます。

もう一人触れておきたいのは、将軍ヨアブです。前章では信仰深いことを語っており、わたしたちも励ましのように聞きました。ところが本章ではダビデに唯々諾々と従って諫めもしません。まるでダビデの本性に気づいているかのように、不気味に歩調を合わせます。理解に苦しみますが、一本線でつなぐとすれば、ヨアブの信仰はダビデへの忠義に水増しされたものという見方です。サウル家の重臣アブネルを暗殺したのも、アンモン人との戦で勇猛を見せたのも、ダビデへの忠義が先立っています。しかし誠実な神への信仰を求めるのであれば、ここではヨアブはダビデを諫めるべきだったと思います。わたしたちは後ほど、ヨアブの悲しい末路、そして本当にダビデを諫める人を見ることになります。

3.過去を計量しない厳しい神、だからこそ・・・

哀れ、ウリヤはダビデとヨアブの姦計によって命を落とすのでした。誠実な人がつまずきの世にあって命を落とすとは、なんと皮肉で救い難いことでしょうか。しかもその命令を下したのがあの信仰深い言葉を語ってきたダビデ、そしてヨアブです。「信仰なんて生きて行くためには意味がないんだ」と落胆してしまいそうにもなります。

26節ではバト・シェバは嘆いていますが、釈然としないものが残ります。彼女は悲劇のヒロインなのでしょうか。王の命令だから致し方がなかったのでしょうか。せめて主の御前に悔い改めか、あるいは夫への不義か、なにかを語れたはずです。しかし終始無言で、喪が明けると王宮に引き取られていきました。

本章では、罪の生々しさと、釈然としない信仰者の本性を見て、落胆の色が濃い読み方となりました。最後の一節が、主のまなざしを端的に、しかしはっきりと語ります。「ダビデのしたことは主の御心に適わなかった(27)。これまで主の選びに信頼して生きて来たダビデですから、している事の罪深さはわかっていたはずなのですが・・・。サムエル記を通読してきた読者は、みなダビデの罪につまずくところだと思います。そこで考えたいことは、「ダビデのしたことは主の御心に適わなかった」との言葉の現在的な意味です。ダビデが過去、どれほど主なる神様への強い信仰を見せたとしても、今このときの在り方には、はっきり「否」と言われる神の御姿がここに示されているのです。過去、どれほど信仰的な行い、言葉を語ってきても、神は今の信仰の在り方を常に見ておられます。因果や善悪の計量によらない、生きた関わりを神様は重んぜられるのです。これは「義」と言われる神様との、命に溢れる誠実な関係性の強調ではないでしょうか。

この真実は信仰者にとって重荷になるのでしょうか。むしろ希望になると思います。なぜならば、神様はそれまでの積み上げられた罪や不誠実もまた一顧だにされないからです。今、このとき、愛する御神のまえに向き直り、これからの生き方を新しくされることを望むならば、その瞬間、神様との関係は復活するのです。これまでの罪責が帳消しになるまで正しい行いをしなければならないならば、わたしたちは永遠に悔い改めることはできません。しかしイエス様は十字架に架かる前晩「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく(マタイによる福音書26:31)とも言われました。すべての人が十字架に示される罪にまず、つまずきます。これをキリストは帳消しにていくださいました。それゆえ、過去の罪を知りながらも、わたしたちは神様との関係を回復できるのです。

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