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9月5日祈祷会 サムエル記下第7章

一章を追うごとにダビデが王として整えられていくことを感じます。全イスラエルの王となり、エルサレムを都に定め、ペリシテを打ち破り(5)、そして神の箱をエルサレムに迎え入れることとなりました(6)。かつてはサウルから命を狙われ、必死に生き延びてきたダビデが、今や王となりレバノン杉の王宮に住んでいます。ずいぶんと身の上が改まったものです。王となり身辺が安定したダビデは、新しい導き手となった預言者ナタンに思いを打ち明けます。「見なさい、わたしはレバノン杉の家に住んでいるが、神の箱は天幕を張った中に置かれたままだ(2)。満ちたりたダビデが大事なことに気づいたところから、本章は書き出されています。

1.神の箱を心配するダビデを、導いたのは神様

預言者ナタンに心中を打ち明け、神様に相応しい建物の建設を志すダビデでした。ところが、ナタンを通して返された御言葉は、ダビデの思いに反するものでした(5)。立派な家に安置されることをお望みになりません。「幕屋を住みかとして歩んできた。わたしはイスラエルの子らと常に共に歩んできた(6-7)、神様はまず、エジプトの奴隷であったダビデの先祖たちを救い出し、荒野の旅路を導き続けてきたことを思い起こさせます。立派な神殿でなければ共に居てくださらないようなお方であれば、か弱い民が救われることはなかったでしょう。全能のお方であればこそ、誰にも縛られない自由な御心で信仰の先祖たちをお救いになったのでした。

この全能の主が、ダビデをも救い、恵みのうちに置いてくださったのです。このことは、すべての恵みの源は神の自由な意志であることの大きな証しとなります。

この主なる神ご自身が、ダビデを王宮に住まわせ、敵を退けました。たしかにダビデは信仰によって歩んできました。しかし繰り返し確かめてきたように、それはダビデの功績ではありません。弱さを自覚しているダビデが神に信頼して歩んできたからこそ、彼は神様の憐れみと恵みに気づくことができたのです。その積み重ねが、今や王として平安に生かされているダビデの身の上に現れています。

2.契約に含まれるダビデの子孫とは?

神様はますますダビデを恵みのうちにおくことを約束されます。これは旧約聖書での重要な契約の一つ、『ダビデ契約』と言われるものです。神様はダビデの家の子々孫々に至るまでの祝福を約束してくださっています。8節はダビデがもともとエッサイの末の子で、か弱い牧童であったことを思い起こさせます。ここに小さきものを選び、用いてくださる主の姿が現されています。ダビデと同じように、すべての信仰者はか弱いところから選ばれて、逞しくされていくものです。今やダビデは王となりました。権力を持ったことで傲慢に陥る恐れがあります。これからも決して傲慢にならないように、小さきものであったことを思い起こさせます。神の恵みに与るために、かつての在り方を心に留め、恵みを与えたもうお方を覚える大切さを示されるところです。

しかも契約はダビデ一代に終わらず、子孫にまで及んでいます(12)。さて、ここで疑問が起こるかもしれません。この契約には何代あとまでの子孫が含まれているのでしょう。さらには13節の「この者」とはいったい誰のことなのでしょう。ダビデ王家の末路を知っている読者にとっては、この契約が意味するところは、黙想してみることが求められるところかもしれません。

 

契約に含まれる子孫については、後ほど考えることにして、先に「ダビデの祈り」についてみてみます。お読みいただいてわかるように、18節以降は受けて来た多くの恵みへ、深い感謝と賛美の祈りです。自分だけではなく、子孫に至るまで恵みを賜る神様に、言葉を尽くして祈っています。

祈りの言葉のなかに旧約聖書に頻出する言葉があります。20節「認める:ヤダ―」です。「知る」と訳されることが多い言葉です。これは、結婚した夫婦の深い交わりを示す言葉でもあって、お互いを知り尽くした関係性を指す言葉です。ダビデは「あなたは僕を認めてくださいました」と祈るダビデは、ここまでの歩みを導いてくださった神の全知を痛感しています。一方、ダビデは神を知り尽くしているわけではありません。ダビデが知っていることは「自分のすべてを自分以上に知っているお方が、神である」ということのみです。これが神と人の関係を現す正しい言い方ということになるでしょう。

神は本当にその人にとって必要なものを恵みとしてお与えになります。ときに、人はその恵みの深さに気づくことができないかもしれません。しかし次第に人はその御心を訊ねるように導かれ、お互いを深く知り合っていく関係に入っていきます。この関係が友好に、つまり「義」であるためには、人は神と人の関係を正しく言い表すことが求められます。すなわち「信仰の告白」で、後半のダビデの祈りがそれにあたります。じつに本章では、神の一方的な恵みが約束され、これに対してダビデが信仰を告白するという、聖書を貫く神と人の根本的な在り方が示されているのです。この信仰の告白のうえに「ダビデの家は建つ」ことを約束されているのです。

3.信仰を告白する群れの上に建つ祈りの家

さてダビデの子孫とは誰なのかという問いを残していました。ダビデの子孫を少し考えてみます。ダビデ王家はソロモンの時代に栄華を誇り、神殿の建設はソロモン王の時に実現する。しかしダビデ王家はその後、南北に分裂し滅びます。このときソロモンの神殿も破壊されました。そうすると神様はソロモンに限定して、この約束を語られ、その後の子孫はお見捨てになったのでしょうか。

新約聖書も与えられている読者は、ダビデの血筋がどこにまで至るのか思い起こすことができます。新約聖書のはじめには、ダビデを含むイエス・キリストに至る系図が記されます。またイエス様は神殿を「三日で建て直して見せる」と言われました(ヨハネ福音書2:19)。このときイエス様たちの目の前にあったのは、破壊されたソロモンの神殿の後に建てられたヘロデの神殿です。この神殿も破壊されました。ダビデに約束されたとおり、神が住まわれるのは壊れてしまう神殿ではありません。壊れても、主の三日目の御復活とともに建て直されるキリストの体、すなわち教会です。

さらに本章から気づかされることは、教会が建っていくための土台です。ダビデは、主なる神の恵みの契約に対して、深い感謝とともに祈りながら信仰を告白しました。マタイ16章のペトロの信仰の告白によれば、主は信仰を告白するところに教会を建てられます。信仰を告白するところ、神との関係を正しく語り継ぐところに、主の家、つまり教会は建つのです。

ダビデに約束された遠い日の契約が成し遂げられるためには、ダビデの子孫であり、また「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる(14)と言われたイエス・キリストの到来を待たなければなりませんでした。しかしいまイエス・キリストの名によってダビデへの約束は成し遂げられ、決して朽ちることのない祈りの家が、わたしたちを通して建て上げられています。教会に連なるわたしたちもまた、神の国を継ぐことを約束された信仰の子孫とされています。


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